教育とは覚えさせることだけなのか。

2008年12月12日
幅広い学習の重要性、数学の重要性

 12月11日の日本経済新聞文化面「私の履歴書」で書かれていたことです。今月は経済学者の小宮隆太郎氏です。
 「研究者を目指すなら、数理経済学を基礎の基礎から学べといわれた。指導を受けていた古谷弘先生は経済理論に必要な数学を徹底的に勉強しようとのお考えだった。」とありました。そして、「私の軽座苦学研究にとって数理経済学を勉強したメリットは計り知れない。経済学の様々な問題を考えるときに、論理的整合性のある理論モデルに基づいて考える習慣が身についた。」ともありました。
 結局、数学は道具でもあるが、論理性を身につける重要な要素だったことになるのでは。論理学をする上で、数学が重要な役割を持っているとのことです。
 日本の場合、数学もそろばんの延長みたいな「計算力」偏重の面が強いのかもしれません。それが、数学を面白なくし、その本来持つ重要性を消し去っているのかもしれないですね。
 歴史の学習においても、事件・事項の暗記に重きを置くような感じがしてならないのです。そうすると、歴史の重要性「歴史を鏡」とできなくなってきますね。それが、あの元空将の発言になってきたのかも。
 幅広い学習でも、暗記中心では効果は出にくいでしょうね。数学を学習しても「計算演習」ばかりではこれも効果は少ないでしょうね。数学で「論理性」を鍛え、それを活用して、自ら調べ、考え、論理的に発表するするような学習が是非必要だと思います。
 でもね、どのぐらいの教員ができるのかな。

2008年8月26日
学習とはなにか

8月25日の日本経済新聞教育面で塾の先生が書かれているコラムで取り上げられていました。
東京のある国立大学附属高等学校で生徒募集に際して学校側からお願いですかな、「本校を受験しようと思っている皆さん及び保護者の方々へ」と題する一文です。その中に「本校は、有名大学に生徒が入学できればそれでよし、などとは考えておりません。受験勉強的な学力、すなわちどうすれば大学入試において、すばやく容易に一点でも二点でも多くの点数を取れるのかなどというテクニックには、こだわっておりません。生徒各自が主体的に、学問に対する絶えざる好奇心・誠実さ・判断力・創造性を培うとともに、自己の心身を鍛え、また他人に対する思いやりをはぐくみ、本校卒業以降の人生・学問に資すべき幅広い視野・思考能力・知識・態度・意欲等を養うことを強く求めてまいりました。そして、その結果として現在の本校が存在することを認めていただきたいと思います。答えはいつも一つだ、その答えまたは答えを苦労せずに導き出す方法を早く教えろなどという生徒や、勉強のみ得意で掃除も満足にできない生徒などは、本校には不向きであると思われます。本校においては、勉学も掃除も等価値であります。以上のことをご理解いただいた上で、本校入学をお考え下さい」とあります。
すみません、ほぼ全文に近いです。プレジデントファミリーで取り上げられていた岡山白陵高等学校では数学は必ず「別解」も考えさせるというのですね。進路実績こちらもいいですね。「答えはいつも一つだ、その答えまたは答えを苦労せずに導き出す方法を早く教えろなど」を否定しているところは同じですね。灘中学校も論証に時間を割いているということです。こちらも生徒にいろいろな考え方による証明を推奨しているとか。
そして、「勉強のみ得意で掃除も満足にできない」のも困りますというのです。大体、汚れている(散らかっていると少しずれます)学校というのは評判を落とし、学力も低下していくようです。これは、学校ではないのですが、イエローハット取締役相談役鍵山秀三郎氏が日本経済新聞(2006年3月31日文化面)に書かれていた「トイレ磨きは心磨き」と通じるところがありますね。よく訪問したときに「トイレを見なさい。」といわれますね。トイレに、そして清掃にその心構えが現れることをいっているのでしょう。
学習とは、「将来、よりよい人間になるため」、「将来、したいことをするための基礎をつけるため」、そして、「生きていく上で常に向上していくため」におこなうものですね。
そこでは、答えなど誰も与えてくれません。自分で調べ、考え、判断していくしかないのです。学校での学習はその基礎訓練にすぎないと思います。そして、自分の未来のために必要な能力をつけていくのです。
大学入試等は、本来、そこでの学習に必要な能力があるかどうかを見るものであると思います。それを単なる競争試験とだけ考える人が大多数を占めるようになったのが今の日本かもしれませんね。競争試験は差がつけばそれでよいのですから、レベル低下が起こりやすくなるのも仕方ないのかもしれないです。

2002年08月4日
 教師が生徒や児童に教えていることで、実生活に役立つことがあるにもかかわらず実行しない。例えば、保健を教えていて煙草を吸っている。理科の教師で物理等を教えていて、自動車に乗ったときシートベルトをしない。などがあります。このような教師を生徒が常に見ている状態になると、学校の勉強は、実生活と無関係であると思いこみやすくなるのではないでしょうか。どの教科のそれぞれ意味を持っているはずです。また、「受験に関係ない」教科をないがしろにする教師もこの手合いと同類だと思います。旧帝大系の大学の入試問題が読解、理解、表現力等をより見る方に移行しつつあるように思われます。センター試験も読解力が必要ですが論述させていないので単純な者は「暗記」と思っているようですね。マークシートでは、理解、表現力等はわからないと思います。