日本の教育どう思われますか(表紙に戻る)

主に教育関係を集めました。新しいものが先頭になるように配置しています。

2004年3月31日
昨日の日経社会面の連載「大学が変わる」を読んで
「百花繚乱の専門職大学院」という題です。例として、助産師の大学院とITの大学院の話が出ていました。
日本の教育が「単純技能」か「理論」のどちらかに偏り過ぎていたのでは。その結果、「理論」のほうは実務がだめ。「技能」のほうは融通が効かないなどの弊害があったのでは。
さらに、今までの大学教育が生ぬるいという問題もね。理論も実務も中途半端であったというツケですね。
「日本技術者教育認定制度」のような制度がある分野は、専門職大学院はできにくいでしょうね。普通の大学教育がしっかりしているということになりますから。
ただ、すき間的な分野については、今後専門職大学院は増加すると思います。

2004年3月28日
日経ビジネス2004.3.29日号「有訓無訓」を読んで
今号は三鷹光器会長の中村義一氏です。「考え抜く訓練が独自の工夫につながる」と見出しがあります。
自身の経験などから「もの作りの楽しさ」、そしてそれが自分で考えることにつながると言われています。
「もの作り」を子供の時にさせるためには、今の受験というか教育に対する価値観を変える必要がありますね。最後のほうで「教わって得る知識は偽物です。自分で考え抜く訓練が大切で、工夫する努力を重ねると、壁にぶつかってもあの手この手が出てくるようになるのです。」とも言われています。
今の教育にかけている「失敗できる権利」や「ゆっくり試す権利」が必要になりますね。
大学入試を難しくするのではなく、卒業の要件の厳格化をすると、このための余裕が出てくるのでは。また、闇雲な「暗記中心」学習も少なくなって「考える力」を養う余裕ができるのでは。
今後の日本は、「独自に考えたもの」を多く発信しないと世界から取り残されてしまうような気がします。そのためにも教育に対する価値観を検討しましょう。

2004年3月27日
大学改革について
国立大学は4月1日より独立行政法人化されますね。
競争原理を導入することも一つの目的ですね。
教育や研究の質はもちろん、経営の効率性なども含めて大学ごとの個性も問われる「大競争時代」に入っていくことになります。私学は、以前から競争原理がはらいていましたね。
競争するということは無競争よりいいのですが、「評価」の問題が出てきます。競争というのは「順位付」があるわけですね。
どのような基準で評価するのか。絶対評価で評価してから「順位」を付けてみるのか。取り敢えず「順位」を付けて上位の一定割合を例えば「Aランク」にするのか。
それによって今後の大学教育が今までより悪くなる可能性も持っていることを忘れないようにしないといけませんね。イギリスでは、競争原理がひどすぎて優秀な研究者や学生の海外流出が多いそうです。
アメリカでは、研究費の配分において「将来、大きな成果が出るかもしれない研究」(今の感覚では採択されそうもない研究)に如何に配分するかということに腐心しています。
日本での競争原理では、イギリスみたいになりそうな感じがします。官僚に近いほど基礎的な「学術研究」の内容を理解できないみたいですので。
結局、個性が潰されて同じような研究や教育を行う大学だらけになりそうに思います。まあ、日本人の習性ですから。
そして、海外に流出した人材が戻って来なくなる日が近いかな。

2004年3月24日
本日の日経社会面「外国語で授業318大学に」を読んで
文部科学省の調査によると、語学以外の科目を英語などの外国語で実施している大学が、国立では前年度比12大学増の79、公立では1大学増の20、私立が49大学増の210と増えており、私立での増加が目立つ。
外国語で鍛えるのもいいですけど、その前に「日本語」をもっと鍛えてほしいですね。専門分野についての日本語による理解の程度が低い場合、あまり効果がないのでは。もっとも外国語では解らないということから日本語での学習により取り組むきっかけになるかも。
丸暗記でない日本語での知識が深くなると、外国語での文献などが読みやすくなりますからね。
この記事の後半分は、学業成績を見る際に不合格科目も平均点を出し厳格な評価を目指すGPAを導入している大学が109になっているということです。大学によっては、留年だけではなく「退学勧告」に利用しているところもあります。
「日本技術者教育認定制度」のような絶対評価的手法を取り入れてGPAをしているところはどの程度あるのでしょうか。日本の全大学が絶対評価になってほしいですね。
まだまだ、相対評価が蔓延っています。大学から絶対評価を広めてほしいです。

2004年3月22日
本日の日経、科学面「大学革新 第4部 手探りの評価制度 4」を読んで
大学に研究に競争原理を持ち込もうと、国は公募型研究費を約2割増やしたしたそうです。
そして、研究費配分を支えるのがアピレビューと呼ぶ研究者による相互評価だそうです。
この評価、徹底するほど「独創的な研究が選に漏れる」と評価の落とし穴を懸念する声が出てきたとのことです。
中村氏の「青色ダイオード」も研究中は冷遇されていたみたいですね。
東北大学で学長もされた西沢名誉教授も相当長い間冷遇されていたようです。どちらも、あとで脚光を浴びることができましたが、そうでない場合、研究が続けられなくなり成果の出る前に打切りにされる自体も考えられる。あるいは、独創的すぎて一部の研究者にしか理解して貰えず研究費が出ないことも考えられますね。
そうなると、誰が見ても無難なテーマ(独創性無し)に落ち着いてしまう恐れが十分にあります。
アメリカではこのような点を改善するため研究費の一定額を別枠にし、うまくいけば「化ける」研究テーマに投じる新制度を研究中だし、研究費配分の担当者が自らの責任と判断でテーマを選別し、研究費の一部を充てることのできる制度を新設したそうです。
どうすれば常識破りのテーマを見つけ発展させることができるのかということが大きな問題であると思います。
いろいろなテーマの研究が進められてこそ社会は発展するのだと考えています。

2004年3月17日
本日の日経、一面「松下の新卒採用 日中が逆転」を読んで
松下電器産業の2005年度の新卒採用数が国内と中国で逆転するということです。
大手電機会社にとって生産、販売両面で中国の重要性を改めて示した形だとありました。
配置なのですが、中国で採用した人材は、研究拠点や開発拠点に配置するとのことです。これは、なにを意味するのでしょうか。
国内の大学卒業生のレベルとの比較で中国に研究開発拠点を移す方が良いと判断したためとも考えられます。
現状の大学教育では、このように製造現場だけでなく研究開発も海外に流出していく事態が続くのでは危惧します。
もっと多くの大学が卒業生に日本技術者教育評価機構の認定レベル以上の基礎力を付けた者のみ卒業させるような仕組みになってほしいですね。
1億3000万人を第3次産業だけで養うのは無理であると思います。
そのためにも大学の技術者教育のレベルを高めてほしいですね。
それと文系での自然科学関係の教育をもっとしてほしいです。そうでないと「技術の解らない」経営者などが続出して優秀な技術者の海外流出を促進してしまいますからね。
大学教育が卒業基準を重要視して卒業が難しくなれば、今みたいな入試は影を潜める可能性があります。卒業できなければ意味ありませんからね。
それと企業の新卒採用活動の時期、卒業後になりませんか。現状なら内定したら卒業できなくても採用しなさい。大学教育で一番大事な卒業論文に掛かる前に決めているのですから。

2004年3月16日
本日の日経、私の履歴書より
今月はイオン名誉会長の岡田卓也氏です。今日の見出しに「流通業に対する規制と戦う 全国1000万人超す署名運動」と言うのがありました。
この規制ですが、昔は百貨店法、次に大規模小売店舗法、そして、今の法律というように変わってきています。
これらの規制ですが、常に現場の変化に対応した国民のためであったかどうかというと疑問が大いにつきます。それが、署名運動であったりするわけですね。
消費税導入や今回の総額表示についても現場で係わっている分野の代表が入っていないため混乱が起きていると書いてました。
日本の官僚などの現場知らずは今に始まったことではないですね。昔から言われています。いまはどうなったのでしょうか。例えば、国家公務員T種合格で警察庁採用の幹部候補の現場体験が署長、税務署もでした。今は変わっていることを期待したいです。
本当の現場が判るわけないでしょ。
それと教育の問題ですね。現実感がないのでしょうな。司馬遼太郎氏の「雑談 昭和への道」の第2話の言われていたことです。
ノモンハン事件の時の現地の日本軍の指揮官が「日本の兵隊さんは強いと聞いているから・・・」といったそうです。
自分で指揮している兵隊に対しての認識ですね。現実感がないのですね。伝承として覚えているという感じです。
今の教育の大して変わらないような気がします。
養老孟司氏の「バカの壁」に書いてある現象とも繋がりますね。知識として持っている。でも、現実には役に立たないという覚え方ですね。
このあたりが放置されたまま、今日に至っていると思います。
バブル経済の時の土地投機も現実感(この時はそこで事業をしたときの収益性)が全くなかったのでしょう。だから、あのようなアホみたいなところまで価格が上昇したのだと思います。

2004年3月13日
日経ビジネス2004年3月15日号時流超流を読んで
この最初にあるのが「東芝訴訟、桝岡氏が鳴らす『知の空洞化』への警鐘  技術立国の現場が危ない」です。
東芝の話になるのですが、桝岡氏がフラッシュメモリーを発明したにもかかわらず、会社はその可能性を見抜けなかった。そして、インテルや韓国サムスン電子に技術供与して両者に独走させる結果になったそうです。
また、光ファイバーでは、西沢順一氏が開発しているのにアメリカのコーニング社から技術導入した企業がありましたね。
多くの経営者はどうして発明とか技術に疎いのでしょうか。また、日本人に独創性がないと思いこんでるのでしょうか。
発明に対する対価の問題もありますが、発明が認められない。研究活動に対しての評価が正当にできないと言うことも大きな問題ですね。
経営トップとか官僚などのトップになるほど、技術などに疎くなるのは日本の特質なのでしょうか。
古い話ですが、ノモンハン事件のとき、ソ連軍との機械力の圧倒的な差を見せつけられても改善しなかった帝国陸軍と通ずるものがある気がします。日露戦争当時の兵器で何とかなると思っていたようです。日露戦争のとき、日本は世界の最高水準の兵器を持っていました。
もともと、日本は新技術の吸収、発展させる能力が高かったはずです。それが、どうしてこのようになったのでしょうか。
そこの点を検証する必要があると考えます。
まあ、定期考査に問題集の問題をそのまま出題するような教師をなんとかしてほしいですね。こんなことをされると自然科学系の科目を多く履修していても何ら意味はないと思います。その上、その履修の少ない文系ではなおさらですね。
技術などが解らない経営者が多くなるのは今の教育の現状では仕方がないような気がします。

2004年3月12日
日経サイエンス4月号の「いまどき科学世評」を読んで
今月号の表題は「200億円 法外論の浅慮」です。
1月30日の東京地裁が下した発明者の中村教授への200億円の支払いを命じた判決に対するいろいろなところの反応に対して書かれていました。
この反応の多くが発明内容の評価などする能力も知識もない経済評論家なる人物みたいなところからでている。
マスコミに登場する評論家ですが、見識のある人物はどの程度いるのでしょうか。今回の場合、発光ダイオードの世界的な位置づけをする能力がないのがほとんどだと思います。
情報の分析もできていないわけですね。このようことは、他の事例でもよく見ます。
これは、そのような評論家を起用するマスコミにも問題はありますが、文系で自然科学が、理系で人文科学や社会科学が判らないと言うことを自慢できる風土に非常に大きな問題があると考えます。
これを助長しているのが、教育、高校での「文系」「理系」分けであり、大学の入試制度や入学後の認定の甘さなどですね。これが長年に渡ったため入試に出ないのは「しなくて良い」から「判らなくて良い」になってしまったのでは。その結果、本来の自分の専門の方にも悪影響が出ているのに気がつかない。
それと、大学での「卒業研究」の指導が十分にされているのでしょうか。この問題点も考える必要があります。企業が3年の終わり頃から採用活動ができると言うことは「卒論」の価値を認めていないということですかな。
分析力が養われていないわけですね。だから、見当違いのことを根拠にいろいろ出てくるわけですね。
日本の企業の全てが「家族的」でしたか。団体生命保険に加入させておいて企業の方が保険金を全額取ってしまっていた例が多数ありましたね。それで生命保険会社はこのような契約をそこの従業員に通知するようにしたわけでしょ。
いろいろなところで、従業員いじめみたいなのがあるわけですね。労働や発明等に正当な対価を企業が従業員に支払うのが当たり前なのにされていなかっただけです。
今回の判決は、単に正当な対価を認定しただけだと考えます。

2004年3月8日
本日の日経、科学面「大学革新 第4部 手探りの評価制度」を読んで
見出しに「広がる産学連携」と「企業の目が変身迫る」とがありました。
まあ、企業にも変身してほしいところもあるのですが優良企業は大学よりマシかな。
研究や教育について外部の目で評価されるということですね。企業が「産学連携」で大学を選ぶとき、そこにあるからでは選びませんね。幾つかの大学の研究内容などを調べて選ぶということになるわけですね。これも、まあ「評価」ですね。
該当分野の研究者がいて選ばれないということは、研究能力などが低いと見られていることになります。
幾つかの大学では、「入試難易度」とは関係なく優良企業に卒業生を送りこんでいます。これは、企業のほうにそこの大学教育を「評価」する能力があって実現できる訳ですね。
どちらにしろ、「評価」という問題を真剣に考えてほしいですね。そうすることによって、大学も企業も発展できるのではと思います。
賃金の成果主義が上手くいかない原因のほとんどが「評価」の問題です。従業員を納得させれないわけですね。まあ、難しい問題ですが、それを乗り越えた企業は巧くいっているようです。
単純な相対評価に慣れ親しんだ者には辛い時代になってきていると思います。
今あげた例は、基本的には「絶対評価」をして、そしてその中で最良と思われる相手と組んだり、採用したりしてるわけですね。

2004年3月6日
本日の日経教育面「起業家精神育成は幼稚園から」を読んで
大見出しに「自ら考え実行する力を」があり、中見出しが「成長に応じた段階教育」と「方法より『なぜ』問う姿勢」です。
詳しくは、日経を読んでください。
高校で実験授業をされた結果、高校生たちが、自分の知識や経験をアイデアづくりに応用するのが不慣れな様子が色濃くですとのことです。出されたアイデアも「思いつき」にとどまっているものも多いとのこと。
これは、学習において「方法」が重要視され、「なぜ」が軽視されるからと考えられているようです。そして、これは大学だけでの努力では解決できない教育上の問題が積み重なってきているためで、社会や家庭との連携が不可欠であると書かれています。
「自分で考え、実行する」ことからの退行現象が目立っている。
原因には企業にも大学にも小中高や社会、家庭に有ると考えます。最初にしてほしいのが企業の採用姿勢の転換です。なんで大学の3年の終わりあたりで採用活動ができるのですか。卒業研究を無視しているわけですね。
次に大学です。もっと厳しく上手に学生を鍛えてください。勉強しない者は留年でいいではないですか。採用内定があろうが卒業の基準に達していないのなら留年でよいと思います。そして、企業も3年次に採用内定だすのなら卒業関係なしに採用しなさい。
小中高も大学とある意味同様です。入試を簡単に、卒業を難しく、学習のやり直しのしやすい環境を。学業の評価には「なぜ」を考えさせる要素と他の人を説得できる能力を含めましょうね。専門をよく理解していないと本来は「説明」できないはずですが。
人間の評価の多様化を。そして基準の明示を。
順番では、能力は全くわかりません。

2004年3月4日
司馬遼太郎の「雑談 昭和への道」を見て
だいぶ前に放送されたのを録画していたので、最近また見ています。
同じのを何回見ても感じるのは、「明治維新」のときの政府の中心として活躍していた人たちと日露戦争あたりを境に出てきたテストにより選抜された人たちの落差の大きさです。
そして、教育のシステムはその後いろいろ変遷しましたが、「秀才」に係る概念は今も変わっていないのではと思います。
さらに「秀才」ではない部分の層の能力の低下が著しいような気がします。
第二次世界大戦のとき、イギリス軍では次のようなことが言われていたと「雑談 昭和への道」でありました。
「日本軍で一番愚かなのは参謀肩章をつけている連中」であると。参謀肩章を付けることができるのは、当時日本で一番秀才が集まる陸軍大学でです。
イギリスと日本の認識の差はどこから来ているのは検討してみる必要があると考えます。

2004年3月3日
昨日の日経の企業4ベンチャー面の「起業する大学」を読んで
慶應義塾大学の取り組みが出ていました。やはり、医学部等を含む総合大学の強みみたいな書き方でした。
国立の法人化による競争激化に私立大学がどのように生き残りに対応するかについて慶應義塾大学の取り組みが試金石になるそうだとありました。
それより、よく聞いていたのが「教育の現場に金もうけ」は相応しくないというものがあります。
でも、貨幣経済の世の中になってからは「金もうけ」は良しにつけ悪しきにつけ必要なことになりましたね。このことに関する体験を早い段階からさせておくのも必要ではないと思います。
儲ける為にはリスクを考えなければならないということですね。そのリスクについて考えさせることが非常によい勉強になると思います。
今の学校教育では「リスク」という概念を無視しているような気がするのですが。その結果、多大なリスク(ものごとを多面的に考え判断することをしないという)を背負うことになってしまっているという皮肉な現象が見られます。
問題集の答丸暗記でできるような定期考査を作ったり、全て択一式の定期考査であったりでは「考える力」はつかないと思います。そうすると、「リスク」などに関しても判断できないのでは。
今回の京都府の鳥インフルエンザなんかの問題もかな。経営者はどう考えていたのでしょうか。「リスク」ということを。

2004年3月2日
昨日の日経科学面の「大学革新」を読んで
昨日はこれの「第4部 手探りの評価制度」その2でした。
見出しに「自己評価 改革の手段に」と「教育の質 底上げ」の二つがありました。
日本は英国の評価制度や競争原理を見本にしています。
そこで、オランダの例があげられていました。
政府系の評価機関による評価に大学が反発して結束し大学協会を組織して評価活動をしているいうことです。
審査は、研究活動の質は高いか、論文や優秀な人材を多く生み出しているか、研究テーマの妥当性、実現性を5段階で評価して公表しているということです。
ただ、すべての大学をランキング付けしたり、評価結果に連動して研究費が増えたり減ったりするいった派手さはない。
この目的は「大学を淘汰するのではなく、底上げするのが大切」ということです。そして、実際に効果が出ているようです。
日本で問題になるのが、評価の基本理念そしてその基準でしょうね。今までなんとなく相対評価になれ親しんできましたからね。
しばらくの間は、ゴタゴタするのではと思います。
オランダの評価内容は妥当だと思います。
日本はどうなるのでしょうか。相変わらず、順位付に一喜一憂するようなことにならなければよいと思いますが。順位は、評価によって出てきますが単なる副産物であるということを認識しておく必要があると思います。
評価の目的は最終的には「基準に達して越えているかどうか」につきると思っています。

2004年3月1日
日経の「インタビュー 領空侵犯」を読んで
今日は、JFEホールディングス会長の江本寛治氏でした。
中頃あたりからトイレの話がでていました。
日本の駅などのトイレが汚いという話です。私も実感しています。旅行中、トイレの為だけで百貨店に行ったこともあります。
最近は少しはマシになっていますね。
ところで、日本は「トイレ=汚い」というイメージがあるようですね。
私も江本氏と同じように「トイレは綺麗」でなければならないと思っています。
ですから、よくトイレを見ればその家の人の人柄が判るとかいいますね。
学校も同じだと思います。トイレの綺麗な学校は生徒も落ち着いていることが多いですね。汚いところほどトイレの破壊も進んでいて生徒も荒れているというか勉強もしないようですね。。そんな感じを持っています。
公共の場を汚すか汚さないのかというところに人格がよく現れている場合が多いと思います。

2004年2月29日
またまた「バカの壁」です。
何回か書いたと思うのですが、また書きます。今日は「まえがき」の部分です。
5頁のところに「人生でぶつかる問題に、そもそも正解なんてない。とりあえずの答えがあるだけです。私はそう思っています。でもいまの学校で学ぶと、一つの問題に正解が一つというのが当然になってしまいます。本当にそうか、よく考えてもらいたい。」という行があります。
私も人生についてこのように考えています。そして学校の試験と大きく違うところが全く同じことの「やり直し」ができないことがほとんどであるということです。
だから、大事なことについては慎重に考えて行動する必要があると思います。そして、同じようなことでも出てくる答えは人それぞれ少しずつ違ってくるはずだと思います。
その答えに従って行動してもうまくいくかどうかはやってみないと判らないですね。人生というのはそのような問題の繰り返しのように思います。
ただ、明らかに不利な条件が多い選択肢を選ぶのは考えものですね。普通は、より良い条件を選んでもうまくいかないこともありますからね。
この時、後の本文にある「バカの壁」を作ってしまって物事を考えていると失敗することが多くなると思います。「バカの壁」を張り巡らしている人にはこのことは判りませんけどね。
日本の教育は、この「バカの壁」を作らせるようなところが大きいと思います。

2004年2月27日
これも教育の問題かな
最近、また司馬遼太郎の「雑談 昭和への道」を聞いています。いろいろと考えさせてくれます。
第二回の終わりのほうで、ノモンハン事件(日本軍の敗北で終了)を指揮していた将軍の話した言葉を紹介していました。
たしか「日本の兵隊さんは強いと聞いているから何とかしてくれるだろう」ということだったと思います。前半はほぼ正確です。日本の兵隊は実際よく戦いました。でも、ソ連軍が火力等を含めた総合力で日本軍を圧倒しました。
その時、自分で指揮している配下の兵隊をこのように言っているわけですよ。
この将軍、現場を見ていないか、見ていても現状認識ができないのでは。そして、将軍になるのは陸軍大学の出身者ですね。当時、日本で一番優秀だとされているところですよ。ところが、頭の中と現実を結びつて有機的に考えるということができないということですね。
ただ単に「覚える」ということを「優秀」と見ていて「ものごとをいろいろな角度から観察などをして総合的に考えて判断を下す」という訓練をされていなかった賜物かな。
この傾向、今でも続いています。何とかしてほしいですね。
そして、このノモンハン事件の教訓はあとの戦争には生かされていません。これも現状とよく似ていたりしますね。

2004年2月26日
教育の問題かな
昨日、私のHPからある病院のリンク(残していた分)をすべて消しました。
ここで、非喫煙者と喫煙者の肺の写真を見つけてリンクしていました。(今は別の病院にしています。)
ところがある日、次のようなページを見て呆れてしまいました。
「愛煙家の方の為に 安心してタバコがのめる方法教えます」というものです。
確かに早期に見つければですが、進行の速いタイプの癌ですと1年間隔の検査では「手遅れ」の危険性が高いですね。
早く見つけても手術ということになると、確実に「肺」が小さくなりますね。それでなくても喫煙者の肺は酸素取り込みなどの働きが落ちています。そして、肺の減少、どうなりますね。QOLを著しく悪くします。
それにたばこの害は癌だけではありませんね。命取りになるのが多くあります。解らないのですかね。
病院のHPに載せるという意識がどうしても理解できません。
このようなことをするのは、肺の働きや癌に対する理解ができていないからかなと思います。
載せるのなら「安心」という言葉を外して警告を入れておくべきです。
それは、教育において「覚える」のみを強調されし過ぎているのが原因かな。因果関係なんてなかなか理解できない。
現実感のなさなどです。

2004年2月23日
日経オピニオン面のインタビュー「領空侵犯」を読んで
今日は、マネックス証券の松本大氏です。
見出しに「学校教育は役割放棄」というのと「社会の活力奪う恐れ」の2つがありました。
最初の部分で松本氏は「私の母校でも最近は『はみ出し人間』を退学処分にすると聞いています。未熟な人間を社会に通用するようにすることが学校の役目なのに、逆に排除してしまう。これでは画一的な人間ばかり残ってしまいます。」とありました。
確かに今の学校は「個性化」と言いながら規制が多いですね。そして、肝心の学力保証が非常に心もとないですね。ただ、松本氏とは考えが違って「どうして学校にこだわるのですか。」教育は社会全体でするものであり、親がするものであり、学校でするものですね。学校にこだわるから、問題が出てきている面が多くあります。
企業の採用姿勢がもっと個人の能力を見極めて行われるなら、履歴書から学歴欄を無くしてほしいですね。そうなれば徐々に有名大学に集中しなくなると思いますが。いかがなものでしょう。
国家公務員試験は、あれ実力ですよ。合格順に出世しますからね。その点から見ると企業のほうが遅れていますね。
国家公務員試験や司法試験などの論述は、日ごろからの鍛錬が必要です。大学入試問題と見比べれば、なぜ、東大出が多いかわかります。
ただ、後半の部分については賛成できる点が多くあります。
私学助成は、大学にするのではなく、個人の利用券みたいな形式ですね。現状では、有名大学に入学する学生は裕福層が多いですね。これは、授業料とが高くて初めからあきらめている生徒がいるわけですよ。そのような生徒に対して返還不要の奨学金のような形でも支給するということですね。そして、大学別ではなく、個人に対して行なって、助成を減らす。すると大学は、学生集めのためにより頑張るということになるいうことですね。

2004年2月22日
日経ビジネス2004年2月23日号の日清食品会長の言葉より
日清食品の記事の最初につぎのような言葉がありました。「私なんか、若い者から見ると翁でしょう。しかし、90歳になっても働けると思えば働ける。50歳になって『わしはあかん』と思えばそれで終わり、要は心の問題ですわ。」です。
ちょっと、世代交代の面から考えると?と思うところもありますが、それより後半部は今の若い者によく見られる悪く言うと「負け犬根性」の通ずる面があるのでは。
自分の能力を磨きもせず、諦めているところです。「わしはあかん」と思いこんでる。会長は、「わしはまだまだ働ける」と思っている。その違いが今の若者のフリーターの増加などにもつながっていると思います。
どうして若者を「あきらめ」の境地に追いやっているのか。その原因はいろいろあると思います。
その一つに「評価」が絡む価値観の問題があると思います。日本で企業が報酬の査定に成果主義を取り入れてもなかなかうまくいきませんね。これは「業績」の評価の仕組みができていないからですね。
長年、培われた「単純相対評価」というのから抜けきれていない。説明できる基準の絶対評価への移行ができていない。評価の基準は完全には説明できないと思います。でも、日本は今まで全くしてこなかったに等しいですね。
それと、問題集の答を覚えるのが「勉強」と思いこむような風潮を作り上げてしまったこと。これはどこかの県が高校入試で「内申書重視」を打ち出してからひどくなりましたね。それに追い打ちをかけたのが「共通一次→センター試験」や私立大学入試のマークシート方式などです。
ところが、養老孟氏の「バカの壁」にあったように、俗に勉強できるといわれる大学でも「知る」ということのみが勉強というのが増えたそうです。
「覚えている」ということと「理解して使える」ということの違いですね。「覚えている」だけで何をしてよいのやらわからないということも「あきらめ」の境地に導く要因かなと思います。
話が変わりますが、「文武両道」の意味ですが養老孟氏の著書によりますと、学習等(新聞、書籍などを含む)で取り入れた情報を理解してより良い行動をするということだそうです。私もそうだと思います。ところが、有名大学卒業生でもこの「文武両道」から外れている人をよく見かけます。教育を何とかしてほしいですね。

2004年2月21日
日経教育面「理科教育の現状と対策 上 」を読んで
見出しに「学習到達度 目標の半分」というのと「指導要領 早期改訂を」と基礎・基本の理解目標に」とがありました。
まず、2002年11月の学力試験についてありましたが、あの試験、無作為に学校を抽出したのかもしれませんが、学校内でどのように実施させるかまでは考えていなかったのでは。学校内で高めになるようなクラスだけ受験させている場合があるのでは。それをしてもあの程度、かつ設定通過率自体が曖昧では。
もっと酷いのではと思います。
現場無視の論理に基づいて学習指導要領がつくられる現状は見なおされるべきであるとあります。その通りだと思いますが、理科の学習に大事なことはいくつかあります。学習を進めるうえでできるだけ早く「論理的」にものごとを考える基礎的な知識を理解させる必要があると思っています。
この「論理的」というのは理科以外の分野でも役に立つものです。そして、その裏づけとなる現象などを実験や観察などで経験させる必要もあります。
理科は、知識だけでも駄目、実験等だけでも駄目です。両者が噛み合って初めて効果が発揮されるのに「実験」をしない教師は結構多いですね。小学校から実験等と理論の関係を判るように指導してほしいのですが、今の教員養成の仕組みでは無理ですね。
理科離れの原因は多くあると思います。その一つに、日本独特らしい「文理別け」があるのでは、そして小学校教員養成過程での理科は酷いですね。中学校養成過程の理科も疑問に思う入試科目であったりしますね。教員採用試験のレベル、一度本屋で見てください。高校でも大学入試程度ですよ。本来、教員はもっと深く理解している必要があると思うのですが。それもこれも文部科学省の方針(教職課程の認可は文部科学省)と絡んでいると思っているのですがいかがなものでしょうか。
学校での指導は結構「自分の経験」によっていますね。教育学部の数学過程は暇らしいですね。教育学部出身の数学教師がその経験で、普通の工学部に進学する生徒に「大学は暇やから」とか言っていました。工学部や理学部などは真面目にやっていたら忙しいのにね。

2004年2月20日
大学での生活費
HPを見ていたら以下のようなものがありました。

2月12日、全国大学生活協同組合連合会が発表した1万人規模の調査で次のようなことが分かりました。
それによると、アパートや寮から通学している大学生の1か月の支出は約12万4800円。大学生の昼食代の平均は3900円で、10人に1人は300円未満。
 一方、平均収入は約12万9000円で、主な収入源の仕送りは約8万5700円で、奨学金は約1万8800円でした。
 自宅から通う大学生の支出は約5万8800円でだそうです。

差は約6万6千円です。一年ではこれの12倍、80万円弱です。私学文系の授業料と施設費を加えた額に近いですね。国公立の授業料は大抵520800円です。入学金ですが国立28万円、私学も30万円ぐらいが多いですね。
自宅生の夕食などの費用を考えるとこの差はもう少し小さくなりますが、それでもすごい差ですね。
アルバイトは、自宅生も下宿生も平均すれば同じだと思います。
結局は、自分の進路と大学の内容、就職先等と学費や生活費などを総合的に考えて決めるのがよいのではと思います。ただ、入学してみないとわからない面もあります。難しいですね。

2004年2月19日
大学入試の小論文
大学入試の小論文の採点基準ですが、旺文社の大学受験年鑑にありました。詳しくは大学受験年鑑をご覧ください。
ある大学のデータをあげていました。大きいのは内容性と論理能力です。
ということは、直前対策ではやらないよりはマシですが、内容性と論理能力の向上は難しいのでは。日頃からいろいろなものごとに興味を持ち、かつ探究的に接していく必要があるのでは。
このために、学校の授業も結構役に立つところもありますし、日頃から幅広く深い教養と論理的に表現することをしておく必要があると思います。
論理的に表現するというのは、日頃の学校の学習活動でもさせることができるはずですね。ところが、このようなことはさせていないですね。テストで択一式や穴埋め式ばっかりだったりしますからね。
だから、小論文だと書けなくなるのですね。感想文ではないのです。小説でもないのです。小説などは自分の思いをそのまま表現してもよいわけですが、論文は読む人に筆者の考えを誤解されずに理解してもらうという前提で書くわけですね。文章表現力も大事ですが、内容性と論理能力のほうがもっと大事であるということになるのではと思います。
文章読解型の小論文では、読解力というのが必要です。この文章というのは大抵「論説」型が多いように思います。小説型などは「国語」でやってますからね。
この読解にも幅広い教養が必要だと思います。
大学によっては、倍率等の都合でどこまで見ているのかな。低倍率すぎると合格数の問題でほとんど採点みたいなことができないところもあるかもしれませんね。
高倍率すぎると、多くを読む必要があるので採点が雑になる恐れもあるのでは。ぼちぼちの倍率(どの程度かは判りません)が受験生にとっても大学側にとってもよいのではと思います。

2004年2月18日
教員の質
難しい問題です。これは、「評価」という点が絡んでくるからです。
どのような教育を良いと考えるかということですね。それで、「評価」というのができるわけです。
学力的には大学を卒業しているわけですから、専門分野くらいは最低センター試験レベルがほしいですね。さらに、高校の教師の場合は、常に大学教養以上のことも勉強してほしいと思います。
学会で発表される方もおられれば、「教科書ガイド」または「教科書の指導書」がないと授業が全くできない状態まで幅広いようですね。
何故でしょうか。それは勉強は「受験」のためで「自己の向上」の為であると思っていないことから起こるのではと思います。そして、学校等によるとその受験もありませんので学力低下ということが起こるのでは。
また、進学校でも入試問題にばかり気を取られ「受験」に関係ないものに対してその教師も勉強しなくなるという悪循環もあるようですね。それに、自己の研鑽を積む機会を文部科学省が用意していないというのも問題ですね。
最低限?の学力が保証できたとしましょう。教え方ですね。
でも、これも生徒の能力の「評価」ということで見られることになるのでは。また、生徒の人気度合もかな。
「評価」というのは「価値観」を尺度としていると考えています。記憶力のみを良しとするのか。本等を持ちこんでもよいから論文をまとめることができのかなどです。
いろいろありますので、今多くの県で始まろうとしている教員に対する「評価」ですね。恐いものがあります。「評価」する者のレベルがしれている場合が多いためです。

2004年2月17日
本日の日経「円と元」より
新聞を職場に忘れてきたので正確ではないかもしれません。
中国人が日本で今までと違った形で入ってきて働くようになってきましたね。
理由は、簡単にいうと「中国人の方が優秀」ことになります。IT関連分野ですがNECやSONYなどが多くの人材を中国に求めています。
どうしてでしょう。
日本人より役に立つというわけですが、教育の仕組みもその一役をになっているかもね。
中国の大学では、評価等も欧米を意識して教育を行なっているようですね。そして、日本に来た中国人は日本を通過点と考えているようです。そして、アメリカなどを目出しています。
ところが、日本で教育を受けても、例えば大学を卒業するとアメリカの大学院に進学したい考えている中国人がいるそうです。
日本の教育のレベルをアメリカより低く見ているのかな。最近でこそ、日本技術教育評価機構などができて教育水準を世界標準に使用とする動きが参加になってきたいますが、まだまだですね。
前からよく書いていますように「大学が教育レベル」を一定に保つ努力をしてこなかったのでは。それが、高校以下の学校での生徒などの勉強態度、レベルを下げてきたのでは。
また、大学が十分に教育せずに卒業させても企業が採用していましたね。これも原因の一つ。
どの段階の適当だったということです。それのツケだ今出てきているのだと思います。
日本の大卒より外国の大卒というのがもっと多くなってくれば、大学も企業もその姿勢を変える必要に迫られるでしょうね。
大学は学力のない学生は卒業させなくなるだろうし、企業はアホみたいな3年の終わり頃からの採用活動をやめて卒業後の採用活動に変更する必要に迫られるのでは。

2004年2月16日
教師の読解力
このような教師もいるということです。全てではありません。お間違いなく。
昨年、あるところで聞いたことです。
大学入試センターの大学入試センター試験の受験案内の内容についてのことです。
17頁の(3)〜(4)でした。
(3)は通常は配布しない科目に関してです。「志願票で必ず希望をしておいてください。希望しない場合は配布されません。また、配布を受けても当日、変更することができます。」でした。
(4)は当日の受験についてで、通常配布される科目については志願票に拘らず自由に変更できます。但し、2教科以下で申し込んだ者は教科の数を守ってください。
一つが別問題冊子の範囲ですね。普通に読んでも別冊子は、外国語の時と数学Aのときにしか関係しませんね。模試の時、別冊子が結構あります。それとの混同、生徒はまだしも教師が! また、この冊子のような書き方でも理解できないような教育をしてきたのかいうことですね。私なら、この記載ですと、理科や地歴などで別冊子になっていたら訴えます。ところが、30頁も参照したら17頁の通りなっており、実際の試験も17頁の通りでしたね。
二つ目は、受験科目についてです。2教科か3教科以上かの区別だけで、どの場合もどれでも受験できる。但し、別冊子希望の時のみ事前に志願票で記入が必要というものです。これが理解できない教師がいたということです。2教科の者が3教科以上受験した場合の扱いも38頁にありますね。読んでいない。私のちょくちょくやってしまいますがそのようなときは読み返すようにしています。
どの分野の教師も大学を卒業しているのだから、この程度の文は理解してほしいですね。

2004年2月15日
大学生の生活費や卒業後についいて
旺文社の全国大学受験年鑑などの資料をご覧になられるとある程度おわかりいただけると思います。
旺文社の資料から引用させていてだきます。具体的数字等は旺文社の受験年鑑をご覧ください。
ここに出ているのは、大学への納付金を除いた額です。東京で自宅生の支出の平均が6万円ぐらいで自宅外は14万から15万円だそうです。
この差は、年間では100万円ぐらいになります。私学文系の普通の年間納付金より多いですね。
地方では住居費が安くなるので差は普通少なくなります。旺文社の例では、大阪で差は7万円ぐらいになります。年間では80万から90万円ぐらいですね。
これでも大きいですね。もっと地方に行きますと住居費はさらに安くなる傾向が強いですが、安くても住居費だけで年間40万円前後が多いと思います。
別居すると、光熱費や食費などで家族と同居に比べて無駄が多くなります。
国公立でも下宿すれば地元の私学の方がトータルで安いということが多くなります。就職等で全国区的な大学は少ないですよ。
アルバイトも大都市圏の方が多いのでは。
下宿して進学する場合、大学の内容、自分の進路目標、卒業後の進路をよく考えてできるだけ自宅からの方がよいように思います。
大学院に進学するなら、そこで地元に戻る手もありますのでやりたいことができる大学という考え方もあります。
ただ、大学卒業で就職するのなら就職したい地域に実績のある大学の方がよいかなと思います。ですから、各大学の就職先地域も調べて志望校を決めれればさらによいわけです。なかには、全国どこでも可能みたいな大学から地域限定みたいな大学までいろいろあります。インターネットのHPで見てみるのも面白いですよ。
教員などはごく特定の種類以外は地元にその免許が取得できるのであれば地元の大学の方がよいと思います。ようはどこに行こうが本人の努力次第です。
公務員も基本的には採用試験を通ればよいわけですからどこでもよいということは、地元でもよいということになります。ようはこれも本人の努力次第です。
受験生本人の希望、学力や大学の内容やレベル(入試のレベルではない)や入試難易度、卒業後の進路等の総合的に考えて進路指導をするべきである。
高等学校の良さの判断は本来、大学等を終わったあと、そこの卒業生がどれだけ活躍しているか(出世だけではないですよ)によるのでは思う。
しかし、大学合格数などによる序列で入学時から潜在的に劣等感をもって努力を放棄している例が多すぎる。
理数ができて優秀だから本人の希望を無視して医学部などと短絡的に指導する高校は消えてほしいですね。

2004年2月14日
日経、教育面の「数字は語る」を読んで
今日は、「早期離職、歯止めかからず」です。若者の雇用が深刻な問題になっている。そこで問題になってくるのが、フリーターの増加と就職しても2、3年で辞めてします早期退職問題である。これは、小中学校で労働体験が少なすぎるのが原因の一つでは。その根っこには、大学入試があると思います。入学歴みたいな入試(卒業の方が楽)を続けているため、入るまでが禁欲的、あるいは人生に必要な経験を積ませない生活があるのでは。
それと、学校などにおける「失敗恐怖症」ですね。してしまったら取り返しの付かない失敗は困りますが、何事につけても「失敗しない」ようにし過ぎて「成功まで耐える」という経験を積ませていない場合が多いからであると思う。
大学が卒業の認定を基準をもって厳しくするようになると入試は楽になると思います。もっと高校等での学習などが入試対策ではなく、実質的に基礎力もでき、いろいろな体験もでくるのでは。基準が緩いままだといくら入試改革をしても今の状況の抜本的解決にはならないと思います。

2004年2月11日
小論文問題
この問題文は徳島大学のHPにありました。原文はそちらでみてください。出題意図もあります。
出題意図からみて「言葉の意味が定義されている場合にその定義に従って考えるとき論理的」ということを主題に書けばよいかなと思います。
話が、それますがこの本の著者、自然現象の説明の方法と言葉遣いから導き出される定義との違いがよくわかっていないような印象を受けます。
「水」ですが、自然科学では、普通質量数18の水ということを前提に話をしていますがね。前提が変われば結果が違ってくるのは当たり前ですね。
重水で実験すれば沸点は高くなるでしょう。人文科学系でも社会科学系でも自然科学系でも「言葉」を使うときの前提というものがあるはずです。
その前提が、その時点で論理的であるのかいうことでいえるのでは。我々が思考し発表するとき、「言葉」でするか「物」をつくるかですね。
「クローバ」の定義では葉の数なんてありましたかな。この場合は「クローバの葉は3枚」と結論づけていますね。これは観察の結果の結論であって定義ではないですね。
「独身」これも時代が変われば意味が変わるかも。
結局、言葉の意味をどのように定義しているのかということにつきるのではと思います。
さらにそれて、文法ですが、言語が成立してとりあえず広く使われるようになってからその共通性を調べたものですね。言葉の定義もそのようなものでは。

2004年2月9日
デジタルデバインドについて
今日も推考はできていないかも。
「デジタルデバインド」
コンピューターを利用できる人と利用できない人、インターネットを利用・活用できる人とできない人、IT社会についていける人といけない人によって知識量や情報量、仕事量の差が大きくなり、雇用問題やビジネス社会においての地位、貧富の差などが大きくなり二局分化の問題である。
以上の意味は、あるHPからいただきました。
コンピューターを利用して成果を上げる、また、インターネットを利用して情報を収集したり発信したりする能力を養い、器機を整備して利用しやすい環境をつくることで解消されると言われています。
これには適切な指導が必要になる事例が多く見られ、単に器機の整備では本来の目的が達成されない。
さらに利用方法を指導しただけでは、次のような問題が起こると考えられます。
情報の価値判断についてです。インターネット上は多種多様の情報であふれています。その中には、正しくて有益な情報も多いのですが、グズ情報も少なくありませんし明らかに間違っている情報、故意にうその情報を発信している場合も考えられます。
多くの情報の中から必要で有益な情報を選び出す能力の養成というのが非常に大事であると考えます。
また、コンピューターを利用して仕事をする場合、手作業での手順等を大まかに理解できている方がより成果を上げれると考えます。
デジタルデバインドの解消には、操作法等の指導、器機の整備のほかに日常の学習活動というのもあって初めて目的を達成できる可能性が出てくると考えます。
自分の能力を高めようと学習活動を活発に行っている者ほど、コンピューター等の器機の操作に慣れる度合が速い場合が多いから。

2004年2月7日
大学入試について思うこと(その3)
問題のレベルですが、これは大学入学後学習の基礎となるレベルで良いと思います。
それより、繰り返しになりますが大学の卒業の学力のレベルですね。こちらを厳格にしてほしいですね。この学力も「覚える」ではなく、大学卒業者として必要な資質を身につけているのか。専門分野の能力は当然厳しく問われなければならないと思います。それに加えて、総合的な教養ですね。工学部出たから経済に関心がないとか、法学部だから自然科学系に関心がないとかでは困ります。
大学というところは、単なる職業訓練校ではないはずです。出口の厳格化で入試のほうは緩和されるのでは。今は、入学さえできればなんとかなると受験生は思っているし、大学側もそうさせている面があると思います。
一部大学でGPAでしたか、進級等に単位数のほかに優、良、可の割合に制限を設けるところが増えてきていますが、各科目の判定が甘くなれば依然と変わりはないということになります。
大学教育のすべての分野に日本技術者教育認定制度(http://www.jabee.org/)みたいな機構ができて認定を与えるようにしてほしいですね。
学力基準などを外部に対して具体的に説明できるように、例えば考査の問題などを公表しその採点基準も公表し検証を受けてください。
企業や官庁などの採用活動が遅くても良いと思えるように大学教育の質を高めてください。そして、履歴書等から学歴欄や職歴欄がなくなることを期待しています。当然、面接等でも学歴などについての質問も禁止ですね。専門分野の問答をすれば、学力等は判るはずです。

2004年2月6日
大学入試について思うこと(その2)
センター試験ですが、今年は平均点調整がなかった。
科目間の平均点の差が大きいときの調整ですが、どうして調整する必要があるのかということがいまだに理解できません。
問題もよく吟味され、良質な程よい程度ですね。受験生は本来は得意とする科目を受けているわけですね。どの科目も目標を同じようなあたりに設定してるはずです。
ところが、今の高校教育において一部の学校を除いて文系では理系科目、理系では文系科目が軽視されています。理系の生徒が受験する地歴の科目は「地理」が多いらしい。
それに対して文系の受験生の理科は「生物」のみに近いです。教育があるいは受験生本人が軽視してる科目の受験が特定のものに集中することになっているのでは。
本来なら、理科での平均点は「生物」が一番低くても良いと思います。それが、余計な得点調整があるかもというためか、物理や化学などを少し難しくしているのでは。
どの科目の受験するならこれだけという最低基準を考えているはずなのが、得点調整をいうもののおかげで歪になってはいないでしょうか。
センター試験は、受験資格のあるナシの判定程度の利用にしてほしいです。2次試験では「論述」やじっくり行なう「面接」などで合否を決めてほしいですね。

2004年2月5日
大学入試について思うこと
1月17日8日のセンター試験、2月に入ると私立大学の入試が最盛期を迎えていますね。
入試の形態ですが、多種多様になりましたね。ところが、出題形式ですが、マークシート方式でこちらのほうは不思議と多くの大学は歩調を合わせています。どうしてかな。
多種多様といっても受験科目の選択数や配点比率の組み合わせを変えているだけですがね。
ある大学関係者が、「マークシート方式と記述方式のどちらがよいのかと追跡調査した結果、あまり差はなかった」と言ってましたが、どの程度の記述なのでしょうか。穴埋めに近い感じの字数では差は出ないと思います。俗に言う「論述式」程度と比べてほしいですね。
高校によると思うのですが、定期考査では生徒は問題集からそのまま出題されると思っており「答の丸暗記」に走っているところの多々見られるようです。そして、大学入試がマークシートでは考えよりませんわ。

2004年2月4日
日経の連載、私の履歴書より
今月は、紀伊国屋書店会長兼CEOの松原治氏です。今日のは旧制高等学校に在学されていたときのお話しでした。
昭和10年ということもあって、陸軍の師団司令部付の少将が査問官としてとして学校にきていたとのことです。
生徒の登校風景を見て批判して「貴学の教育はなっていない。学生の服装はまちまちだし、先生に対して朝、敬礼するものもいればしないものもいる」とだそうです。それに対して、当時の教頭先生が毅然とした態度で「あなた方は軍人だから星の数一つで敬礼するかもしれないが、学生は自主的だから、尊敬する教師には頭を下げるだろうし、値しない教師には頭を下げないのは当たり前である。」と反論されたそうです。
当時、これだけはっきり言われる教頭先生は少なかったのでは。立派な方ですね。
ところで、「学生は自主的だから、尊敬する教師には頭を下げるだろうし、値しない教師には頭を下げないのは当たり前である。」の部分ですが、今に置き換えて考えてみると、どうでしょうか。
今、人気のある教師はどのようなものでしょうか。予備校での人気講師とは。旧制高校当時の教師は、不人気なのでは。今の人気度ですが、例えば、解き方のテクニックを教える教師だったりするのでは。じっくり考えさせる教師の人気は低いような気がします。
今は「勉強」について、なにか楽な方法があるのでは、その方法を知ることに余計な労力が費やされているような気がします。例えば、センタ試験なんて普通に授業をうけ、理解し忘れないようにしていたらできるものですね。まあ、忘れないようにが難しかったりして。特別な解法なんていりませんよ。それが、傾向と対策でしょ。その結果、センター程度も理解できなくなってきてる。論述対策をしているところほどセンターの得点が高かったりするのでは。
勉強の意味をよく考えてくれれば、尊敬に価する教師とはどのようなものか幾分かでも理解できるのでは。そうでないと、現在では、テクニックのみを教える教師に人気があったりして。

2004年2月1日
昨日の日経の教育面「秒読み 国立大法人化の課題C」を読んで思うこと
見出しに「『変わりたくない』が本音」と「大学側の意識に遅れ」と「高等教育の質向上 期待薄」とかがありました。
現在、卒業生の質に関する国際的な基準による制度を構築しつつあるのは、「日本技術者教育認定制度」の制度ぐらいですね。他にありましたか。
俗に言う理工系のほうはこのように国際化にも向けて動きだしているのですね。問題は、国際化にあまりさらされていない分野のほうでは。理工系でも能力のない研究者のほうは制度の変更がないほうがいいですね。
国際的通用する研究者は過去の制度のひずみによって総合大学のほうが多いような気がします。そのような研究者にとって日本より居心地の良いところがあれば実際に研究室ぐるみで海外に出ていった例もあります。
結局、大学の中で本当に有能な研究者が多ければ書かれているような抵抗勢力は少なくなると思いますが、実際はいかがなものでしょうか。

2004年1月28日
本日の日経の社説『理数能力の「惨状」と教育行政の責任』を読んで
内容的には何日か前(23日や24日)にも書いていますが、結局は行政の責任が大きいですね。過去(今もかな)に受験地獄とか言われましたが、入学すれば遊んでいても卒業できる状態の大学が多数あったのがその大きな原因では。
そして、それらを見なおすことなく、かつ十分に検討もすることなく思いこみで科目減などをしましたね。そして、子どもの勉強に対する意識変化にも気がつかずにね。
さらに共通一次、センター試験に代表される択一式テストが蔓延り考える力を蝕んできたのでは。その世代が教師や親の主力を占めるようになってきました。
そうすると、勉強とは「覚えること(丸暗記)」と思っている割合がさらに増加しているわけですね。
行政はこのような変化に対して国民の学力維持のため制度を考える必要があったのに単に「負担軽減」のみにとらわれていたり、国民の変な平等主義によって勉強の意味がさらに形骸化されてきたのでは思います。
今だに相対評価ですね。そして、択一式、基準なし。
ですから、すべての分野に日本技術者教育認定機構(JABEE : Japan Accreditation Board for Engineering Education / 設立 1999年11月19日)のような組織をつくり、まずは大学卒業のレベル確保からしてほしいですね。

2004年1月27日
本日の日経、社会面の「個人差解消コース別に」を読んで
見出しに「小人数指導で大阪の小学校」とあります。
そこの教諭が実践例を報告され、記事になったものです。
小学校の教科内容にも児童がつまずきやすい教材があるわけですね。そのところを、理解度に応じて小人数で指導したらつまずいた児童の理解度が向上しそして全体の平均点も向上したとあります。
人数が多いより少ない方がいいですね。でも、進級していくうちに能力の伸び方の違いが出てきますね。これは致し方ないと思います。そうすると、常に同一学年の中でという考え方では対応できなくなると思います。
目標を提示し、学年に関係なく適切に指導すると年数にバラツキはでますが高校卒業レベルまでは大抵の生徒は理解できると思っています。
先日の文部科学省の学力検査みたいな悲惨なことにはならないのではないかと思います。
人間、生まれてきたときから全員遺伝子の組み合わせが違う個性ある存在ですね。一卵性双生児でも違いが出てきますね。それがどうして通学年数だけ同じにしなくてはならないのかな。留年や飛び級があってもいいではないですか。
それより、個々人の能力を発揮できるようにしてやる方がいいのでは。生まれていたときから個性的なのですから人間関係を上手に出来るようにしてやって、画一的な規制を押しつけなければ個性は潰れないかな。
履歴書から、学歴欄と職歴欄をなくしましょうや。まず、学歴欄廃止をお願いします。それが出来たら、次が職歴欄、または年齢、住所、性別などもね。

2004年1月26日
日経、本日の文化面、島隆氏の「新幹線、親子3代の夢」を読んで
この中で、特に読んだところは「後ろ姿見て同じ道へ」です。結局は、親の生活態度が子どもの教育を含めた躾になっているのですね。例外もありますがこの手のはなしよく聞きますね。
良い方にしろ、悪い方にしろ、子供の見本は親ですからね。ですから、児童虐待をしてしまった親の多くが本人も子供のとき虐待されていたともいいますからね。
また、婆さんがその子を習い事によく通わせていたら、その子が親になるとまた同じように習い事に通わせたりとか。よく見ていると、親子けんかみたいなをしていても行動はよくにていますね。
喫煙でも、家族全員が吸わない家庭では子供の喫煙はまずありませんが、親が吸っていると子供の喫煙率は高くなりますね。その上、学校で煙草の害を教えている教師が吸っていたら目も当てられませんね。
島氏の場合は、午後8時には父親は欧米の書物を原書で読むなどで机に向かっていたそうです。本人もそれを見て勉強したとあります。
勉強は本来面白く楽しいものなのですが、指導の仕方や大人たちの価値観がおかしいと辛く面白くないものになっていくのではと思います。
日本での学力低下の原因の大きな部分は文部科学省の姿勢にもあるのですが、一般の大人の学力に対する認識にも問題があると思います。
例えば、飛び級や留年に対する感情ですね。1年や2年ぐらい遅れようが速くなろうが子どもの学力やその他の能力が伸びればいいものをどちらも白い目で見るというようなものです。

2004年1月25日
日経ビジネス1月26日号の時流超流の「教師にも実力主義賃金」を読んで
教師の世界も実力主義はあっても良いとは思うのですが、今の日本の価値観で導入というのはどうもと思います。
今の受験競争ですね。異常だと思います。まだまだ、入学歴ですもの。進学した生徒が入学後、どのように伸び、卒業後の活躍を追っていないですからね。
それなのに、特定大学への合格数のみで判断している。合格率なら少しはマシかな。昨年の東大への合格率では東京の開成、麻布、兵庫の灘、同程度ですね。
どの程度の生徒をどれだけ伸ばし、卒業後も自力で出来る能力をつけさせるというのが大事なのでは。予備校の人気講師の中には「How to」型の混じってますね。
高校の運動部指導は、卒業後も活躍できる基礎指導ですね。全国大会があるため「勝つ」ことにのみ集中しているところもありますね。これは、指導者の評価が「勝つ」のあって「卒業後の伸び}にはないからかな。
話はちょっとそれるかもしれませんが「文武両道」「知行一致」はどちらも意味合いは同じそうです。学習したこと、覚えたこと、理解したことを実際の行動(筋肉の活動)にして他の人にも判るようにすることだそうです。
実力主義ですが、何をもって良しとするのか言うことが今の日本では不明確すぎます。教えた子のレベルから鑑み卒業後等にどのように伸びたかということも基準に入れてほしいですね。

2004年1月24日
昨日の続き、文部科学省の高3学力調査について
調査ですが、無作為に約10万5千人を抽出したとありますが、多くの高校が習熟度別や進路別クラス編成を行なっていると思います。そして、それぞれの高校の全員に対してなら無作為の効果はあると思うのですがそうではないようですね。
すると、実施高校の段階で作為が入ることがあるのでは。やはり「点数」が悪いと「カッコ」が悪いですからね。そのようなことが行われたとすると、この結果よりもっと悲惨なわけですね。
約40年前でしたか、かつての文部省が行なっていた学力検査で大規模な作為が行われていたいう話を聞いたことがあります。成績不振者はあらかじめ休ませるとか、カンニングさせるとか、です。
今回は、調査学校の全員を調査したのでしょうか。数クラスのみですと、「カッコ悪い」ことにならないうように、俗に言う学力優秀クラスで調査を受けさせた高校が多いのでは。
もし、調査対象を大学進学希望者だけにしているのなら状況はより悪いですね。
進学希望で「学校以外の勉強時間ゼロ」が約40%もいるのはどうことですか。このような生徒は大抵学校でもまじめに授業は受けてませんよ。
単なる「競争試験」のみで進学のための「最低基準」を設けていないからかな。大学が「遊んでも卒業できる」と思われているからかな。
すべての校種において、進級、卒業に最低基準を設けましょう。少しは改善されますよ。定着するまでは、例えば「大学進学のためにはセンター試験50%以上の得点」とか、外部の認定機関を利用するほかないかも。

2004年1月23日
本日のニュースより(文部科学省の高校生の学力と学習についての調査)
詳しい内容は別のところに譲ります。こうこう3年生の学力についてでした。学力低下云々も入っていました。
そして約4割の生徒が学校以外では学習をしないというのもあったと思います。
これらの原因はいろいろなものが考えられると思います。その中の一つが単位認定の問題だと思います。
各科目、どのようなことが出来るようになったら与えるとかがないのですね。兎に角、出席して(居ればよい)考査(問題の質は問われない)でぼちぼちの点数を取れば認定されるのが普通では。
相対評価で認定をしているところでは、「皆でサボれば恐くない」です。向上心とか知的好奇心は高校に進学するまでに失われいる生徒の割合の大きい高校ほど酷い状態になると思います。
万全な解決策などないと思います。すこしでも良い方向にするためには認定基準を明確にて到達したかどうかで認定することでいくらかは解消されるのでは。
だから、以前から述べているように大学進学のためには、センター試験みたいなので一定水準以上の得点をとることをすべての大学受験の条件にするというのはいかがなものでしょうか。そして、センター試験の得点はこの基準に達したかどうかのみに使用を限定すべきです。得点差を合否判定への利用を禁止してほしいですね。

2004年1月21日
センター試験について
自己採点も終わり、各予備校などがそのデータを集めて解析し出てきた予想をHPなどに載せはじめましたね。
共通一次以前と比べて業者に新たな仕事を提供してますね。業者は、受験生には無料でしているのでどこかでこの経費を回収しているわけですね。
19日に自己採点、即日回収、今日の深夜にはHP上に判定できるサイトを開くそうです。平均点や大学別のボーダーラインなどはすでにでています。
この余計な作業は、センター試験の得点を合否判定に使用するから起こるわけですね。京都大学の理学希望者は自己採点だけで判定終わりです。なぜか。京都大学理学が利用するのは基準点以上あるかどうかにだけです。
京都大学の他の学部や他の大学もこれを見習って欲しいと思います。択一式や穴埋め、簡単な記述程度の問題の試験は、資格試験的に使ってほしいです。
できれば、今のセンター試験のレベルなら大学進学希望者はどの科目の50%以上の得点はほしいですね。

2004年1月19日
本日の日経、社説「財政再建、何ともはるかな道」を読んで
今週閣議決定する「構造改革と経済財政の中期展望ー2003年度改定」の参考資料があるそうです。
そこには、構造改革が成果をあげ、今後の経済成長率が徐々に高まり、2013年度には3.7%にもなると予想しています。
これ、甘すぎませんかね。毎度のことですね。過去、10年間が悪すぎたのは確かかもしれませんが、政策が悪かったからでしょ。その政策が変わっていないですね。
工場の海外流出を止める手だてを考えている様子もなく、今造れば借金の塊になる高速道路や新幹線をつくっている。
いま、するべきことは、無いほうがよい規制を撤廃すること。子育てにもっと大胆に公費を投入すること。工場の海外流出を防ぐ手だてをまじめに考えること。失業者が増えれば、景気回復なんてありません。
今は、全世界的な競争の時代です。教育でも世界水準を保つ必要が特に大学教育であります。今の日本は過去の遺産の食いつぶしの状態のような気がします。

2004年1月18日
Sanday Nikkeiの中外時評「備えも覚悟も薄い地震国」を読んで
日本での地震対策ですが、新しい耐震基準を満たさない住宅がまだ千数百万戸あるといわれているそうです。そして、昨年の十勝沖地震では、津波被害にタンク火災のおまけまであって備えの意識がどうなっているのかということです。
それが、北海道に限った話ではなく、全国どこでも同じようなものではというのです。
そして地震予知ですが、防災訓練が「地震予知」に関る「判定会議」が開かれてますね。それで「予知」が出来ると思いこんでいる閣僚や国民が多数いるということなのです。
この「思いこみ」は、いまさら始まったものでは無いですね。その昔、「神風」が吹くとかいって戦争に突っ走った輩がいましたね。国民性と教育の問題ですよ。
センター試験の問題は、前にも書きましたようのこのタイプの問題の中では非常に良質です。でも、択一式ということでその価値を大幅に下げています。択一式の問題が主力になるにつれて思いこみも激しくなってきているのでは。自分で考えて書きませんからね。だけかの意見の受け売りになりますから。
戦争に突っ走った頃のほうが「記述」が多かったのではと思います。それでも突っ走った国ですからね。これからどうなることやら。企業等の新卒採用に日程には卒論の学習効果というものの考慮がありませんしね。
単純な思考パターンの考えの者が増加しているように思えます。
車のシートベルトの意義もわかっていない者が多いですね。地震防災もシートベルトも基礎的な考え方は同じではないでしょうか。身を守る為にはどのようにすれば良いのか。煙草をすっていてシートベルトをしない人は防災意識ゼロかな。
日経の私の履歴書にアメリカのブッシュ大統領をこの6月ぐらいまでに登場させてほしいですね。私の覚えている範囲では、外国の現役の元首で登場されてそのまま任期を全うされた方はいません。二人の方ともそれぞれの国内の事情によって途中で退陣です。

2004年1月15日
もうすぐ「センター試験」
もうすぐセンター試験ですね。入試問題の中では、良質な問題だと思います。ただ、選択肢がありますので勉強の質が落ちると思います。
人間が「学ぶ」というは、ものごとを知り、または理解したなら、自分の言葉で表現できるはずであり、行動に変化が現れるはずです。言葉で表現できない、行動に変化が現れないというのは、単に「文字列」を丸暗記しているのと同じではないでしょうか。
「文武両道」という言葉、「知行一致」という言葉は、養老孟氏の書物によりますと「文」は書物等で学習することで「武」はその結果が行動に現れることだという風に書かれていました。
択一式は、この「行動」に相当する部分が欠けることになるのでは。
ですから、センター試験の得点の扱いは「京都大学理学部」のような扱いに留めてほしいです。
何日か前も書いていますが、これからもシツコク書くつもりです。

2004年1月14日
本日の日経、社会面の「大卒就職内定率最悪73.5%」を読んで
読んでみますと、理由として「厳選して採用しており、希望に沿う人がいなければ無理に採らない傾向が強まっている」と厚生労働省は説明しているそうです。また、「即戦力を求め、中途採用に流れてる面もある」という。
なら、どうして企業は3年次の終わり頃から求人活動をするのかな。大学教育を無視しているからこのようなことができるのですね。さらに、どのような人材を新卒に求めるかということも、中途採用相手より曖昧なのでしょうか。
それでも、内定率が低いというのは求職者側にも?かな。
そのうち、日本もアメリカみたいに履歴書から学歴欄などが削除されるという話も聞きました。何時になるかはわかりませんが、いいことだと思います。ただ、今みたいに先輩訪問とかを大々的にしていたらバレバレですけどね。
特に今の日本の教育では、特定の職種というか分野や認定された学科以外は学歴と仕事をする能力の関係が曖昧な学生がやたらと多いような気がします。
だから、学歴なんて書かなくても良いと思うのですが。
そのうち、職歴も書けなくなるのかな。採用側の能力が見透かされるようになってきますね。

2004年1月13日
昨日に続き「教育」に関すること
昨日、最後に「センター試験やマーク式や択一式、穴埋め式などの入試の得点は、京都大学の理学部のような足切り(ある一定の得点以上あるかどうかだけで見ています)にのみ利用してほしいです。」と書きましたね。
まだ、センター試験は読解力の必要な問題が多くなってきているように感じます。また、選択肢も長文が増加しているようですね。それでも、択一式であるということで表現力をいうか考えてその結果を自分の言葉で他の人に伝えるということが出来ませんね。出題者の用意した言葉から選ぶということに本来の試験の大事な部分、表現するが抜けていることになります。
このことは、記述でも穴埋めや簡単な説明文を書かせる程度ではあまり変わりはないと思います。
極端な話をすると、現実に問題と教科書や参考書を見比べてもどこが出題されているのかわからないのも出てきているわけですね。大学に進学希望の者で教科書すら自分で読めないというようなのも。だから、教師(予備校等を含む)が「これが出る」といった問題の答を丸暗記しようとする者が現実に少なからずいます。
教科書や参考書等の資料から問題の答が探せないのです。これでは、何のために高校などの学校に通っているのか疑問になります。答を丸暗記するから「忘れる」、「面白くない」などの現象が起こるわけです。
テストの方法を再検討してください。特に大学入試では、「センター試験やマーク式や択一式、穴埋め式などの入試の得点は、京都大学の理学部のような足切り(ある一定の得点以上あるかどうかだけで見ています)にのみ利用してほしいです。」です。

2004年1月12日
本日の日経、社説「深刻化する若年者の雇用不安」を読んで
今日が「元服・・・成人の日」だからこの社説がでたのかな。
雇用の減少の理由ですが、大きいのは工場の海外流出に対して何ら対策を打たない行政の責任が大きいと思います。欧米では、雇用の創出のため工場誘致に補助金や税制の優遇等の制度も整えていますね。
それに引きかえ日本は税収の落ち込みのみにとらわれて、工場の海外流出を促進し工場の法人税はもとより個人の所得税や形骸活動に伴う消費税まで減収にしているのでは。さらに生活保護費等は余計必要になるようになってきている。治安の悪化で警察官も増員ですね。経費ばかりかさむ。なにを考えているのかな。
それといまの若者の鍛え方(教育)にも問題があると思います。なんですか、暗記力だけでよいようなテストや入試。絶対評価といいながら実質的には相対評価のまま。学習でも達成感がなかなかできない。
学校等で、禁止事項が多すぎる。それより学力レベルを一定水準以上に保つ方策を考えたら良いと思います。
企業の関りとかいろいろ問題はあると思いますが、若年者が真面な経験を積める機会を造る必要があると思います。
センター試験やマーク式や択一式、穴埋め式などの入試の得点は、京都大学の理学部のような足切り(ある一定の得点以上あるかどうかだけで見ています)にのみ利用してほしいです。

2004年1月10日
本日の日経、教育面の「数字は語る」の「読書少ないと成績悪い?」を読んで
全国学習塾協会が塾に通う中学生約2800人に聞いた調査だそうです。
1ヶ月に7冊以上の本(教科書・マンガを除く)を読む生徒は7%にすぎず、38%がほとんど読まないと回答したそうです。
成績との関係では上位層と下位層によく本を読む生徒がおり中間が・・・ということのようです。
よく読まれる本は、上位層も下位層も同じなのでしょうか。本の内容によってはマンガと変わらないのもあるようです。
また、中間層ですね。文字のみの本を読まないという生徒の割合が大きいわけですがどうしてでしょうか。
読書は「読解力」をつける基礎的な練習になると思います。
今の入試で読解力を必要としている大学は、俗に「難しい」といわれているところが多いですね。
また、このような大学は、一般入試でも「論述」的な解答をさせていますね。
まあ、単純な暗記力を調べるような問題は止めてほしいですね。

2004年1月9日
昨日の日経、経済2のところにあった「新卒者採用前倒し進む」というのを読んで
卒業学年に達しないうちから採用活動を始める企業が増加しているとのことです。
何を考えているのかな。大学側は、採用内定があろうが無かろうが大学の基準に達した学生のみを卒業させてください。
企業も4年にならないうちに採用活動を開始し早期に内定するなら、卒業をまたずに内定決定の時点から正規の社員として勤務させてください。履歴書から学歴欄などを無くしてもいいのでは。残しているというのいまだにレッテルで採用を決めているのかな。
日本の教育を潰さないでください。大学で一番大事なのは卒業研究では。それもしないうちに採用内定というのは、大学を企業がバカにしている現れでは。
ろくに卒業論文も書けない者を卒業させるような大学はないと思うのですが。

2004年1月8日
H2Aロケットの失敗の原因についてのニュースより
日本的体質がでましたね。補助ロケットの設計変更により以前のものより内部の圧力が2倍になるとのこと。
さらに燃焼試験で側壁に穴が空きかけていたそうですね。そこで分厚くしても側壁が削られ方が大きいので実際に打ち上げたとき、回収して調べるように報告書にもあったそうですね。
やばい部分についてはうまくいっても検証してみる必要があるということですね。それを宇宙航空研究開発機構(JAXA)はしていなかったということです。
「終わりよければ全て良し」みたいな意識があったのでは。この疑問点は相当深刻だったから報告書にも記載されているわけですね。調べておけば今回の失敗は防げたかも。
表面的な成功?で慢心してしまうのが多いような気がします。ものごとの本質を見抜くことのできる教育が必要になりますね。今のマークシート式のテストでは限界があり過ぎます。
もっともっと論述させ、さらに多くの人々を説得できるような能力も身につけさせる必要があると思います。

2004年1月7日
日経企業1の連載「2004年壁に挑む 2 意欲生む成果主義」を読んで
見出しに『「魂入れる評価基準」探る』とあります。成果主義の成否は「評価基準」にあるわけですね。相対評価になれ親しんだ日本人にとって苦手な「絶対評価」というのが必要になると思います。
その時、どのような業績をどの基準に照らしてどう評価するのか。さらに「目標達成」に対して見ようとすると、「目標」を低めに設定する社員が増加するそうですね。高めに設定した場合、到達率が低くなる可能性が高く不利になると消極的になるわけですね。
これらの問題に対して完全な解答などあろうはずはないのです。評価とは常に完璧なものなのないのです。
まずは学校の勉強では到達度、(企業においては業績の大きさかな、目標達成度ではありません)で見る絶対評価になれ親しむことがこれらの問題の解決の一つになるかもしれません。相対評価では「皆でサボれば恐くない」が起これば自滅ですからね。

2003年12月28日
昨日の日経、教育面の「教育」を読んで
総合的学習の話でした。「工夫しだいで相当な効果」とありました。
その効果とは、「進学実績の向上」とあり、理由は目的意識などが形成または高まり進路意識が高まったため。
これは効果の中の一部分では。本来、学習とは各教科がばらばらであるのではお互いに密接に関連づけられているはずなのですがね。
それが「ばらばら」に捉えられているところがあるので「総合的学習」などというのが必要になってきたのでは。もっとも大学で先ずしっかりしてほしいですけど。卒業論文無しで卒業させるなどもってのほかだと思います。
深く研究する、幅広く調べる、とかいう訓練をして勉強の意味合いがなんとなく理解で来てくるのでは。
そのようなことをさせずに卒業させる大学は潰れてほしいですね。
大学の教官たる者は「卒業論文」の指導ができるから大学の教官でしょ。しっかり指導してくださいよ。
卒論必修のところもありますが、そうでないところは是非必修に。
本日の報道特集で「生活保護費」の話がありました。官僚というか政府の本質がでていると思います。「兎に角、予算配分は変えない。本当の弱者はどうなってもかまわない。」今の政府の機構が維持できればよいという考え方ですね。工場の海外流出を促進して失業者を増やすから生活保護費が足らなくなるのです。そのようなことも判っていないのですね。高速道路が無くても地域の活性化をなしとげたところがありますね。今は側を走っているようですが。
海外からの工場の誘致を、規制を緩和して誘致を。

2003年12月27日
本日の日経の教育面「今どきの子ども」より(遊びの効果)
見出しに「遊びの効果 ケガの発生、慣れで減少」がありました。
鳥取県米子市の加茂小学校の例です。ここ4年間のケガの数を調べてみると2000年には1161件あったのが今年は506件と半分に減っているとのことです。
これは「加茂っ子タイム」といって子どもの中に「仕切り屋」、遊びの仕切り屋を育てようとする取り組みのようです。全学年混ぜて一斉に遊ぶ。始めのころはケガが結構発生していたのが半分に減少してきたというのです。
まあ、何事も慣れるということも大事ですし、ケガをするという経験の有る無しも後のケガの発生に関ってくるのでは。痛みを知っているということですね。
危ないからなんでも「禁止」では成長のしようがないですね。適度な経験というのが大切であるということかな。
この学校、不登校児がいないそうです。遊びの効果かな。
遊びが減った理由はいろいろあると思いますが、その中の一つに今の大学入試や企業の採用姿勢、見なおしてほしいですね。大学でうはマークシートの入試、全廃してほしいです。論述多用ししてほしいですね。
企業は、大学や高校など卒業してから採用を決めてほしいと思います。大学入試も時期をもっと遅らせてほしいです。

2003年12月23日
天皇陛下のお言葉
本日は、天皇陛下の誕生日ですね。新聞に陛下のお言葉がでていました。
一部をそのまま書かさせていただきます。
「私どもは皆でこのような過去の歴史を十分に理解し、世界の平和と人々の安寧のために努めていかなければならないと思います」と述べられてます。
これは歴史を上辺だけで都合の良いように理解するのではなく、日本にとって都合の悪い部分もしっかり噛み締めてほしいというお気持ちかなと読まさせていただきました。
二度とあのような戦争を繰り返してほしくないという陛下のお気持ちを大切にしたいです。

2003年12月18日
本日の日経、企業2の連載「電子復興 第3部 AV2強の焦り」を読んで
2強は、ソニーと松下です。液晶テレビやDVDなのでの出遅れなどが指摘されています。
今日は、ソニーについてです。その中に「技術の分かる創業者が・・・」とあり、今の「経営陣は事務系が主体で・・・」であるとかありました。
ここで問題になるのが技術屋は経営というか法律なども含めて疎い。逆に事務屋は技術がわからない。という事例が日本では多すぎるのでは。
今、日本では直に「理系人間」とか「文系人間」とか色分けしたがりますね。そして、それにもたれ掛かって専門外の勉強をしようとしない。場合によると関連分野でもその時取り敢えず必要がなければ勉強しないのが多いですね。
その結果、幅も奥行きも狭い人間が出来てきているのでは。この傾向はここ20年前ぐらいから酷くなってきているようで、最近は、大学入試で受験校でない大学の入試問題をしても仕方がないとまで思いこむ者が現れる始末です。
程度とかを考えればいろいろな問題に当たってみる価値があるのにです。
結局、勉強とは何なのですか。私はより良い人間になるためと知的好奇心を満足させるためだと思います。まあ、知的好奇心は次から次と疑問が出てきて満足しないですけどね。
それに対する評価はどのようにすればいいのでしょうか。相対評価は「みんなでサボれば恐くない」となり勉強しなくなりますよ

2003年12月15日
二日ほど「たばこ病」でしたの教育について
日本で不思議なのは、医療関係者の喫煙率の高さです。さすがに医師の喫煙率は低下してきているようですが、看護師等は相変わらず高いようですね。
医師で今だに吸っている人の気が知れませんが。
これらは、教育の意味ですね。一体何だったのでしょう。覚えるだけでは意味がないと思うのですが。
教育の効果は、実際の生活の場の行動に影響を与えたときに効果があったとするのがいいのでは。
いろいろなものごとを調べ、その中で役に立つというか良いことを理解しそれを行動に移すことができるというものです。
基礎的に覚えている、または理解していることを確かめるのにぺーパー試験は有効でしょうが、実際に行動に移すことができるのかいうことは見れないと思います。
授業内容が行動に現れるのなら医療系といわず全ても過程で喫煙率は低下するはずなのですガね。特に大学を含む学校ではね。

2003年12月6日
本日の日経教育面「数字は語る」より思うこと
ベネッセの調査によると「学力・生活態度ともに悪化」とありました。
これは、全国の小中学校教師約7000人を対象に子供の変化について尋ねたものです。
親も教師も「マニュアル」世代になってきていますからね。泥臭い学習方法などを嫌い、より簡便な方法を求めて来ましたからね。
知識を得るのに楽な方法、そんなのあるのかな。だから、生徒集団の学力水準が低下してきていると答えた教師が多くいるそうです。
楽をしようとすると思考力も続かなくなり、想像力も低下しているようですね。
もっと、奥行きのある幅広い学習等による苦労をさせましょうや。程度は極端に難しくする必要はないはずです。ただ、記憶する事項でも各自に考えさせてどれが最重要なのかとを理解させる手順がいると思うのですが。
「マニュアル」手順書の順に覚えればよいとばかりに記憶に走っては、理解力や想像力、そして記憶にも悪影響を及ぼしています。
もっと、手間暇かけましょう。

2003年11月26日
昨日につづき本日も日経の社会面連載「医療事故 機器が凶器に変わるとき」を読んで思うこと
見出しに『不信生む説明不足』と『リスク情報も隠さずに』の二つがあります。
まあ、これは教育にも問題がありますね。論述させない。説明する機会を生徒、学生に与えていない場合が多いですね。
「説明」は場数が必要だと思います。「説明」するためにはその本人が十分に理解している必要がいると思っています。理解できていない場合は、一見立て板に水のようでも本質を見落としていますね。
だから、真面な説明ができない。センターみたいな試験の多用が生む弊害でしょう。医学部は今でこそ上手に説明される医師も増えてきていますが、「説明」をしたら権威に係るとか勘違いしている医師も見受けられます。
昔の医学教育では「説明責任」を無視していましたからね。良いことばかりをついつい言うことになるようですね。そうすると、患者はリスクを知らないまま判断することになりますね。後でもめますね。
今は、幾分か公表してくれるようになって来ているの医療事故が判るようになってきましたがそれでもまだまだですね。
このあたりも教育の問題もあるように思います。
日本の教育って教育なのかしらと思うことがよくあります。CDROMみたいな人間を養成してどうするのでしょうか。ROM(READ ONLY MEMORY)、覚えたことしか読み出せないという意味で使いました。

2003年11月21日
20日の日経の社会面連載「大学が変わる 迫る国立大法人化」を読んで思うこととテロ
見出しに『進む就職予備校化 実学に傾斜「教養」影薄く』とありました。この傾向は大学入試対策として「出る順・・・・」とかいう参考書の考え方と同じではと思います。
就職に必要なものだけしておけばよいという考え方ですね。これで新しい産業が興せますかね。それと、法科大学院の話が出ています。法律で扱うのは何なのでしょうか。六法全書ですかな。これは利用するのですね。扱うのは、日常生活や各種産業、国際関係などと多岐にわたりますね。その時、役に立つのが幅広い教養だと思うのでが。司法試験の科目で教養を必修にしてほしいですね。
教養の中身も考えてほしいです。例えば、歴史なんて年代と事件と人名を組み合わせて覚えるだけでは「年表」程度の人材ですね。1000円ほどで売ってますがな。必要なのは歴史の意味(日本にとって都合の悪いことも含めて)を検証し、未来につなげるような歴史の教養ですね。
今の実学主義では、欧米や中国に置いてきぼりにされる危険性を含んでいると思います。予備校の中には、まともな所もあるとは思いますが、大学受験を含めて単純作業しかできない機械みたいな人間を育てているような気がしているのは私だけでしょうか。
テロが多発していますね。あれ、価値観の対立、旧来のイスラムの価値観と欧米の価値観ですね。そして今はその攻撃対象としてアメリカ、イギリスというような気がします。まあ、生活に於いて「宗教」を一番優先するのか、「契約」を優先するのかというようなところが大きいような気がします。
日本では、織田信長によって「政治」と「宗教」の分離ができたように思います。イギリスは、イギリス国教会が国王によって作られたときかな。アメリカの独立において、宗教の影響力はほとんどなかったのでは。イスラム社会では・・・・です。そのような違いも関係していたりするのかな。
イスラエルとパレスチナとの関係は上に述べた理由とは違います。

2003年11月18日
16日の日経の連載「大学が変わる」を読んで思うこと
結局、大学での研究や教育に対してどのような評価をくだすかということが重要ですね。その大学内部にしろ、外部評価にしろどのように評価するのか。この点がはっきりしないといろいろ問題が生じてきます。
今まで大学の評価ってあったのでしょうか。なかったようですね。高校の評価も進学率やスポーツ大会の入賞のなどで評価していたようですね。これは、教育のごく一部分ですね。
例えば、大学での研究内容ですが、今流行の分野を重点的にしているのだけがよいのでしょうか。幅広い基礎研究があってその応用として今の流行があるわけですね。流行の部分だけにすると、将来の流行の基がでなくなりますね。そのあたりの評価ですが、難しいですね。でも、避けていると将来の競争から取り残されますね。
それらを見分けられる能力を持つ優秀な人物に評価が必要になるわけですが、聞くところによると日本にはそのような人材の養成の仕組みがないそうですね。
大学も旧来のままではだめだと思われているので改革されているわけですが、外部評価がおかしければ、また、国民が上面だけの評判で評価をするようになると日本はおかしな方向に進みやすい国なのでどうなるか心配です。
これらは、なんらかの基準による評価を受けたこともなく、したこともない教育の賜なのでしょうか。何となく序列を作り上げるとそれに寄りかかる国民性ですね。国民性がこんなのだから大学も大変ですね。でも、これは教育の賜ですよ。
中学高校のスポーツですが、相変わらずスポーツ障害がでているようですね。これは大会に正選手として出たいため無理をするためのようですね。それでスポーツ生命をだめにする生徒も多くいるようです。なんとかなりませんか。

2003年11月16日
13日の日経社会面「司法試験の合格者1170名」を読んで思うこと
合格者の平均年齢が28歳ですね。この中身が問題だと思うのですが。司法試験受験の準備のためにしか費やしていないのでは。就業経験も入れてほしいような気がします。
これは、法科大学院でも同じです。ですから、働きながら、あるいは働いた経験があるというのはそのようなことがないのよりよいことだと思います。どの程度、そのような学生を入学させるのでしょうか。
それと、異分野の学生をもっと取ってほしいような気がします。この件に関しては医学部もそうのように思います。医学部は、アメリカみたいに大学院教育にしてどこかの大学の卒業を必要とする条件ですね。
それと、同じ大学の大学院に進学させないというのもよいのでは。アメリカでは、例えばハーバード大学の医学部に行きたいのならハーバード以外の大学を卒業する方が圧倒的に有利だそうです。研修病院もだそうです。一般の学部の大学院でも同様だそうです。
日本は、そのままが進学というのが多いですね。
せっかく、法科大学院を作るのですから別の大学の大学院に進学させるようにはできませんかね。
単純に今年の合格者数だけで見ますと、卒業生数に対する合格者数は国立大学の方が高いですね。何が影響しているのでしょうか。俗に言う入試の難易度は私学の方が高い場合が多いのにね。これは、大学入試の科目数、および試験形式の影響があるのではと思います。
司法試験は、2次でまず、択一式でしたかな。次が論述そして・・・・ですね。国立の方は大学受験の時から慣れていますね。そこらがでているのかな。それと受験科目が多いことによる幅広い基礎的な教養とかの影響も。
今の高校生の学力低下はひどいのでは。教科書がまともに読めない。でも、多くの教科では、択一式、または穴埋め式の問題、それも問題集と同じ問題の定期考査。学力つくわけないですよ。
だから、センター試験は足きり程度に利用に留めてください。マークセンス方式の入試の大学への助成は止めてください。
明日は研修医制度に関することを予定しています。
それと道路公団の前総裁、東条英機などと同じタイプの秀才だったような気がしているのは私だけでしょうか。

2003年11月12日
日経社会面「留学生10万人を突破」を読んで思うこと
20年かかって達成しています。ところが、「課題は学力確保」とあります。これは、留学生の優秀な部分がアメリカやヨーロッパに流れて日本はその次になっているからかな。
それでも、多くの留学生は日本人よりよく勉強しているとのことです。ということは日本人、どんな勉強をしているのかなということになりませんか。そのような状態を続けているから優秀な留学生が日本を選ぶ割合が減ってきて「学力が・・・」ということになってきているのでは。
最近、大学で「GPA」という評価手法を取り入れるところが増えてきています。優良可の評価を取らすだけではなく、その割合を問題にする評価です。優が少なく、可が多いと、また、履修を申請したけど単位を修得できなかった部分も入れて考える制度です。低空飛行では進級できない制度ですね。
ただ、可とする評価の基準、良とする評価の基準、優とする評価の基準はどうなっているのでしょうか。以前のままの甘い水準では意味がないと思います。この「GPA」を取り入れている大学は評価の基準も厳格しておいてほしいですね。まあ、日本技術教育評価機構の認定プログラムは世界的な水準の基準ですけどね。ほかはどうなのでしょうか。
日本の大学のこのようなことから水準を地道に上げていく努力をすることが「留学生の質」の確保につながるのでは。また、日本人の卒業生の海外での評価の向上につながるのではと思います。
それと大学(入試)や企業(採用試験)の学力観の改善が必要ですね。企業は採用のとき大学名は関係がないといっていますが今の採用形態では、私は?と思っています。大学入試、マークセンス方式は足切程度の補助資料に使ってほしいです。

2003年11月8日
ホームページ巡りをしていて思ったこと
ホームページいろいろありますね。内容ですが、一般の方もたくさんありますので専門的に見れば問題のあるのも多いのではと思います。ここでいう「問題」とはエログロナンセンスや風俗関係などではありません。
無知から来ている分が多いのでは。その点については「あ、間違っている」で通り過ぎます。
しかし、病院の医師が書いている部分で間違いというか認識の浅さというかあれば、どんな教育を受けてきたのだろうと思います。
最近もあるHP(病院です)で「たばこを安心して吸う方法」をみてびっくりしました。どんなつもりでこんなことを載せたのだろうと。
内容は、年に1回、痰の検査とCT検査を受ければ早期なのでなんとかなるという内容でした。たばこの害って「肺ガン」だけでしたか。ほかにもたくさんありますね。咽頭癌、胃癌、食道癌、その他多くの癌、血管の障害、酸素不足、心筋梗塞の引き金にもなりますね。
吸うこと自体が「危険」と隣り合わせなのにわかっていない。本当に「医師」なのでしょうか。この手の教育を受けていない人が言うのなら判らないこともないですが。
肺ガン、進行の早い分ですと1年間隔では開き過ぎではと思います。どこのHPか探してみてください。禁煙教室もやっているのですよ。なにかチグハグもここまで来るとあきれるだけです。
まあ、結局は「教育」の問題に行き当たりますね。「教育」とは、人間の成長の助けるものでしょ。成長とは「暗記」ではないですね。「君子豹変」、これは、君子たるもの、より良きことを知ったら今までとは違う君子になる、とか言うような意味だそうですね。教育を受けるって、このようのことであると思います。
ところが、現在はというか日本は「暗記」が「教育」と思いこんでいるようですね。ですから、専門家といわれる人がこんな訳のわからないことをしていて、平気なのでしょう。

2003年10月25日
日経の教育面「数字は語る」を読んで思うこと
今日は、主な項目は「法科大学院」についてですがこちら(数字は語る)にします。
今日の内容は「進学校、推薦より一般入試」です。グラフもありまして、そのグラフに高校から大学への進学で国公立大学への進学数で分けてみて、推薦入試をどのように指導しているかがありました。
国公立大学は推薦入試をしていますがその定員の配分は少ないですし、まったくしていない大学もあります。私学でも俗にいう有名校は推薦の比率は低い場合が多いですね。
推薦を積極的に利用するという指導方針の高校は、国公立進学が少ないところに多い。国公立が多いところは一般入試主体であるとあります。
俗に言う学力の低い生徒ほど勉強が下手のようです。そして、勉強を試験のための暗記としか思っていないようですね。そうすると勉強は「しんどい」。早く終わらせたい。でも、大学に進学したい。
推薦は一般入試より大分早い時期ですね。さらに試験科目も少ない。そりゃ集りますわ。勉強への諦めも早い。
指定校制推薦というのがあるのですね。大学が特定の高校に推薦者を依頼する推薦制だそうです。聞くところによると、全国、津々浦々の高校に出しているような大学もあるようです。
これの時期は普通の推薦より少し早いことが多いみたいです。指定校の要項というか指定校の情報は多くの高校では、学校内の特定の期日まで完全に非公開にしているようですがね。大学側はどう思っているのでしょうか。
どちらにしても卒業は楽(こちらは少しずつ変化がでてきてます)、入試も楽、どうする気ですか。企業が3年生の終わり頃に就職内定を出す理由が判るような気がします。

2003年10月22日
日経本日の社説「”官僚統制教育”脱却の方向が見えない」を読んで思ったこと
国民自身の教育への努力で今まではなんとかなってきました。昭和の戦争へのとき、文部省のしてきたことを考えると「官僚統制」は、また、日本を滅ぼすのではという心配が常につきまといます。
最後のほうに「ゆとり教育」について記述があるのですが、欧米系は小中高校は結構ゆとりがあるみたいですね。
大学に入ってから勉強がすごいようですね。ゆとり教育でもいいとは思うのですが、評価の仕方でどうにでもなると思います。
大学が基準をもって評価をつけるようになると変わってくるかなと思います。そのとき、企業も3年生の終わり頃に採用内定を出すというようなことは止めてください。
大学が卒業認定を厳しくして中途半端の学力の学生を卒業させないようにすれば、企業も採用内定を出す時期を遅くするのではと思います。
すべての企業は大学卒業生を採用するなら、何らかの最低限の学力があるかないかぐらいのテストをしてほしいですね。どのような学力というか能力を持った人材が必要かということをはっきり明示する企業が増加してほしいですね。
この2者が変われば高校生も変化してくるのではと思います。大学に進学してからの勉学に耐える学力をつける必要が出てきますからね。
評価は絶対評価でね。基準を作るのが相対評価より面倒なので日本では避けてきたのかな。「職人」の世界は絶対評価ですね。
教育の世界も絶対評価にしてほしいです。相対評価は問題の作り方やそのときの生徒の集団の状態から見て明らかに違うものでも同じ評価になりますからね。どこそこの学校で1番の生徒や100番とか毎年常に同じ力を持っている生徒を卒業させることができますか。

2003年10月18日
中国の有人宇宙飛行成功で思うこと
中国が遂に達成しましたね。今の勢いなら高齢化社会をものともせず発展を続ける可能性がありますね。
日本人は中国を甘く見ていませんか。独自の古代文明から現在まで続いている国家、民族ですよ。
現在のアメリカに於いて中国からの留学生がいなくなること、今いる技術者が中国に帰るということだけでアメリカに経済的打撃を与えることができる存在だそうです。
優秀な人材を輩出しているのですから今後日本の競争相手の時代はそれ程長く続かないで日本が取り残されたりする可能性がありますね。
それを回避するためにいろいろな方法があると思いますが、その中の一つが国立大学などでおこなわれている、おこなわれつつある教育内容の充実と単位認定の厳格化ですね。
教育の目的は何なのですか。序列をつけるためではないでしょ。児童生徒、学生がどのように成長し何ができるようになったかが問題なのでしょ。
このためには、評価の絶対評価にすることとその厳格な運用、教える側も絶え間ない勉学に励む必要があると思います。その時、教える側では勉学に割ける時間の確保を考えなければならないと思います。
欧米では学力の低下が起こらないように昔から厳格な評価をしていたようですが、それでも国民が低下してきたら留学生で質の確保に走っているようですね。
評価の時ですが、当てもののような問題では評価になりませんよ。共通一次やセンター試験、マーク式、穴埋め、択一式では「当てもの」ですよ。こんなので評価するから「答えを覚える」の勉強という雰囲気を広げたのでは。記述では生ぬるいです。論述試験みたいなので評価や入試をしてほしいですね。

2003年10月10日
日経本日の社説を読んで思ったこと
まず、「住宅ローン減税の継続を早期に決めよ」ですが、財務省の体質ですね。税が景気などに大きな影響を与えているということが理解できないのでしょうか。
今日は住宅でしたが、先月にも書きましたが欧米の工場誘致の例ですね。税を減らせないなら補助金で進出企業の負担を減らせて誘致しようとしてます。さらに、クリントン前大統領にとってアーカンソー州で長年操業している三洋電機を高く評価してしますね。
見かけ上税収減になってもトータルでその分以上の利益がもたらされば良いわけですね。工場が進出する。→継続的な雇用が増える。→消費などが増える。関連産業も。→失業手当等が減少する。所得税等が増える。治安が良くなる。警察経費などが減少する。
まあ、さまざまな要素が変動しますね。
私の感じでは、財務省は「税収」しか考えていないのではないですか。そのようなことで景気が回復しますかね。
次に、「学力重視を明快に示せ」です。
これ、どんな学力ですか。答えを丸暗記してもできるような学力ですか。自分で他人の助けがなくてもある程度は調べてより正しいと思われることにたどり着ける「学力」であってほしいですね。
そのために必要な基礎力とはなにか。その解答例(あくまでも例)を大学で実践してほしいですね。例えば、日本技術者教育評価機構の認定のように。
その基準に達しない学生は卒業させない。これをしばらく続けると大学入試も良い意味で楽になると思います。そうすると高校では大学入学後の学習に耐える基礎力の養成に力を入れられると思います。
そうすると中学校は、中学校卒業だけの場合の基礎力とは何か。高校等に進学するときの基礎力とは何か。考えてほしいですね。
学校教育の中身、実生活に役に立ちますが、今の学習方法や大人の態度を見て育つ子供はそうは思っていません。そこにも大きな問題があります。
現状では知的好奇心を非常に早期に失っている子供が多数出てきています。知的好奇心を失ってしまっていると教育効果は上がりませんよ。その子が自分から学習したいと思うようになるまでは。そして、学習の仕方が分からないまま間違った方向に進む場合も多いと思います。
「学力重視」でどんな学力を重視するのですか。

2003年10月9日
今年のノーベル賞経済学部門の受賞者の記事を読んで思ったこと
今年もノーベル賞の季節になりましたね。各部門の受賞者が発表されていますね。
経済学部門ですが、またもや統計学等をフルに利用した研究が対象になっていますね。
日本の経済学ですがどうなのでしょう。
2004年度入試である大学が2次試験で数学Vを必修にしたことについて文句を言っていた高校教員がいました。今の経済学の状況を理解していないのですね。
これとよく似た話でだいぶ前に聞いたことですが、ある薬学部の入試説明会でどこかの高校の教員が「化学で有機化学の出題の割合が多い」と文句を言っていました。この教員、薬学部の内容を分かっていないのですね。薬学では化学の分野のなかの有機化学が主体になるということがです。
過去(相当昔になるかな)には多くの国公立大学の経済学関係の学部でまたは学科で数学Vが必修であったと思います。
それが、変なゆとりというか効率主義というか負担軽減というかけったいな考え方の下で、経済学は文系という誤った考えで数学が受験科目から消えていったように思います。
統計数学ですが、これは、調査や実験、観察などを行う全ての学科で必要なはずです。
法学部では、法が研究の主体ですが「裁判」では何を扱うのですか。理数の教養がないと理解できないことを扱っているはずです。経済などの仕組みや人間についての理解がないと法は作れないですね。また、工業や農業についての理解がないと本当に実情にあった法は作れないですね。
理系でも人文科学や社会科学の教養を必要とします。
理系、文系と分けるのをやめましょうや。

2003年10月4日
本日の日経、生活経済の「けいざい探検」より
今日は、一宮女子短期大学といでしたクリニックが取り上げられていました。
一宮女子短期大学のほうを読むと、教職員の意識改革、それと卒業生の学力保証というか能力の向上ですね。明確な目標を定めて学力等がその基準を越えるように、教職員の意識を改革して学生の指導に当たっている様子が書かれていました。
先ず、実行したのが授業内容の改善、当然、評価の方法、基準の検討改革も含まれていると思います。評価が旧態依然のままでは授業内容を改善しても効果はしれていると思います。授業後の反省、日本の行政には見られない姿勢ですね。この時、適切な助言をできる体制がこの短大にはあったのでしょう。
まあ、学校教育の目的ですね。それをこの短大は明確に、その目標を達成するために必要な改革を実行したということですね。
クリニックのほうも、患者さんの流れをストップウォッチまで使って研究して時間を短くするのに成功しています。この時も目的の明確化が大きな役割をしていると思います。
教育の目的って何なのですか。順番ではなくて、それぞれ各人のもつ潜在能力を引き出して人間性を高めることが目的では。一宮女子短期大学の試みも、このようなことが根底にあるのでは。教育は選別が目的ではないはずです。相対評価は「選別」のためにするものです。本来、教育に不必要なものではないでしょうか。

2003年10月3日
本日の日経、社会面より
愛媛大学が「受験資格」に関する規定でフリースクール等も認めることがあるという記事が出ていました。
いいことですね。大学が審査して学力に問題がなければ認めるというのはいいことだと思います。
ところで、俗に言う日本の高校卒業生の学力のほうが心配なのですがね。gaiax系のHPを作っている高校生が多数います。そのHPの日記などを見ていますと、「授業中、寝ていた。」、「欠点だ!!!」、「宿題まだしていない」とかよく書かれているのですね。私、日記しか読まない。
これは、大学も含めて「絶対評価」をしていないので「なんとなく」卒業できてしまうからでは。一部の大学をのぞいて卒業生の学力というか能力というかそのようなことに関してほとんど全ての学校はなんら責任を持てるような教育をしていないのでは。特に「相対評価」にご執心のところはね。
大学受験資格ですが、日本の高校を卒業しても「センター試験」を全教科受験させ、どの教科も例えば50%以上必要とかにしてください。但し、センター試験の得点は大学の合否判定には使わないでください。
今は、昔と違って勉強しませんよ。欧米みたいに留学生を入れるわけでもないのですから、高校の卒業レベルも大学の卒業レベルも歯止めをかけてください。

2003年10月2日
続けて久しぶりに教育について思うこと
三日目ですね。今日こそ、教育全般についての思いだったりして。
現在、大学のある部分が卒業認定というか、各科目での認定基準を定めようとしてきていると感じてます。それも、一大学ではなく複数の大学間での格差をも念頭において。
大学間の単位互換が増加すればこの傾向はさらに進むのではと思います。ところが、相変わらずの大学も多いのではと思います。
この手の絶対評価ですが、評価するほうに力(学力や研究能力など)がないときはできないと思います。ええかげんな絶対評価をしているところが多いのでは。大学で「絶対評価」が広まってくれないと小中高校での絶対評価が本当の意味でできないのではと思います。
でも、相対評価より「絶対評価」の方がいいことは確かなので文部科学省は「各学校の教務規定やその内規、申し合わせ事項に及ぶまで」調べて相対評価をしているところ指導してほしいですね。今の豊かさの状況では、特に中学校で相対評価では勉強しない子がではじめるのではと思います。高校進学等への諦め、緊張感のなさ、学習への興味の消失、学習の意味に対する誤解などかな。小学校、高校もですがね。
ただ、学年制を解消したほうがいいかな。人間、発達の度合がいろいろいあるので遅い子も出てきますね。その子がゆっくり学習できる環境を作ってほしいですね。今みたいに一斉進級でその中のみの評価であれば、絶対評価でも相対評価と良く似た意味合いを持つ恐れがあります。

2003年9月28日
日経ビジネス9月29日号の監督の目、星野仙一氏で「勝つことで人は変わる」を読んで思ったこと
人間、成功体験が必要なのですね。それも努力が報われるという形の成功体験が。阪神タイガースですが、星野監督曰く「負け犬根性が染みついていた。」それを払拭するのに勝つということ、優勝することが意識改革に必要であるということ。
まあ、プロ野球は優勝が必要ですね。
ところで、普通の学校の児童生徒では勉強において成功体験てなになのでしょうか。順番では、上位の生徒はいいですけど、学習が送れてきている生徒ではそうもいきませんね。今、問題になっているのは学習の水準ですね。それが、全体的に低学力になってきている。順番(相対評価)では、他者より1点でもよければ言い訳ですね。俗にいうできるという生徒のその段階で止まってしまっている。
遅れている子は、良い評価を貰ったことがなくなってくるので勉強を諦めている。留年さえしなければよいとね。
絶対評価で、年月をかけてその能力の延び具合とか何ができるようになったとかを評価し、誉めるということが必要では。
努力すればできるという体験、それの繰り返しが必要では。その時、全員同時に進級なんて止めてくださいね。ただ、繰り返し勉強することに対する偏見をなくしてほしいですね。第2次世界大戦ですが、戦争に日本を引っ張っていって潰したのは、当時最も優秀な人材が集まっているはずの陸軍大学などの出身者ですね。松下幸之助氏は小学校しか出ていませんね。どちらが日本にとって役に立った人材でしょうか。松下氏のほうですね。
単に学校のときの学習が早いか遅いかなどだけで人間の評価をしないでほしいですね。

2003年9月27日
本日の日経教育面の数字は語る「学級の人数、韓国・日本突出」を読んで思ったこと
OECD加盟国の平均値が小中学校とも20名少しです。これに対して日本は小学校で28.8人、中学校で34.5人です。韓国はこれより多いですが。日本の学級定員は40人で41人になると学級が2クラスになります。80人まで2クラスで81人から3クラスになります。中学校に比べて小規模の小学校では、この区切りの偶然によってまだ比較的小人数になりやすいと思います。
だから、中学校は40人に近い状態になります。高校は、大抵40人クラスで退学の多いところや希望者の少ないところで1クラスあたりの人数が少なくなります。
この人数では、絶対評価をするのは無理があるのではと思います。ここの学習状態を本当に見れるのかなと思います。そして、相対評価に馴らされた教師たち、ですから、今だに御上の言い付けに背いて「相対評価」をしている学校が後を断たないのではないかと思います。
絶対評価は、御上の項目や評価基準を読んだだけでできる教師なんてどのくらいいるのでしょうか。御上は、実際的な研修を繰り返しする必要があると思います。相対評価で評価することが「厳しく」評価をすると思いこんでいる教師もいますから。
絶対評価をされた経験のない者に「絶対評価」ができるのかなと思っています。その上、この多人数でしょ。表面的には絶対評価、実質は相対評価が蔓延っているのではと思います。

2003年9月25日
一咋日の日経、文化面の「私が感動した競技者たち」を読んで感じたこと
障害者スポーツの迫力というか躍動感について写真家の清水一二氏が書かれていました。
このことについて思うことなのですが、日本では例えば「養護学校」ですね。私は「養護学校義務化」が始まったときから、これは障害者の隔離ではないかと思っています。健常者と同じところでなぜ、教育を受けささないのですか。手間がかかる?そんなちんけな理由ですか。
多くのところで同じところで生活することによる利点ですね。お互いの理解が深まるという利点です。これより大きな利点が他にあるのでしょうか。知らないことによる差別、疎外の例はそこらに多数ありますね。交流が無いからです。
スポーツでも障害者が排除されてきすぎたのでは思います。今、漸く欧米に近づいていっているところですね。
もっともっといろいろな人が自力で活躍できる環境を整備してほしいですね。

2003年9月15日
土曜日の日経教育面のテンプル大学の学長の記事を読んで感じたこと
毎度、日が遅れましてすみません。
ようは、アメリカと日本との違いは勉強をさせるか遊んで卒業できるかが大きいですね。その他、アメリカでは小規模校から大規模な研究大学まであるというのは日本と似ていますが中身でどうなのでしょう。アジアからの留学生がまずアメリカを目指しているということから考えて評価はアメリカに比べて悪いのでしょうね。
どうしてこのようになったのかを考えることは、小中高での学習の意欲に関しても考えることになるのではと思います。
テンプル大学の学長は、生涯教育についてはアメリカのシステムのほうが良いというようなことを言っていました。日本の仕組みは巧く機能していないように思います。それより、大学入学→勉強終了みたいなところがまだ残っていたりして。
もっと、海外との競争を考えて海外の良いところは取り入れられるようにする必要がありますね。
それと、医師は「電話」で診療行為ができて、薬剤師は「電話」では法律違反になるのですね。どうしてなのかな?誰か教えてください。。

2003年9月11日
日経「私の履歴書」井植敏氏を読んで感じたこと
創業者の意気込みというか、使命感というかそういうものもありましたが、今日の最後のほうで協力工場の件が出ていました。テレビのキャビネットの仕上げが何回指導しても納得できる品質に届かないというものです。
このことに関しては、アジア各国の製品の品質に対してケチを付けていたのと同じだなと感じました。時代が早いか遅いか、国内の業者同士か過去外貨の国外かの違いがありますが、本質は同じかなと思いました。
日本は、アジア諸国より早く通り抜けただけですね。車でも戦前はアメリカ車のほうが品質が良かったのですが戦後の切磋琢磨で逆転したわけですね。いま、アジア各国に追われる立場ですね。
気になるのが、国内でのもの作りの雰囲気が悪くなってきているような気がします。第3次産業の時代だと浮かれ過ぎていたり、政策が悪くて工場の海外流失が止まりませんね。。
日本は、第2次産業が頑張らないと1億3000万人生活できないと思います。今の製造業が国内にとどまっても海外との競争に勝てるような税制とかが必要ではないでしょうか。海外では工場誘致に多額の補助金などを出しています。
全世界と競争しているのですよ。人材の面も競争ですね。海外との競争に打ち勝てる大学教育を願いたいものです。

2003年9月3日
昨日の日本経済新聞の社会面「大学経営に評価指標」を読んで思ったこと
いままで評価の基準みたいなものもなかったようですね。基準も無しに比較するとかされていたのにどうしてそれを放っておいたのかな。
「大学の使命」の項目で10項目挙げられていました。そのなかの「入試の多様化」ですが、現状では、悪くすると入試レベルの低下に繋がりかねないような危惧をもちます。ある大学がAO入試を始めると翌年には予備校が対策講座を開いている。アメリカでのAO入試って簡単に対策講座の開けるようなものでしたか。誰か教えてください。今までの推薦入試と変わらないようなところあるようですね。手を広げすぎてどれもだめになるという例かな。
このようなものがありますので「評価基準」というのが大事になると思いますのでより良いものを作ってほしいと思います。教育レベルに関する基準を是非お願いします。日本の大学生の教育レベル、高いとは言えませんね。中国やアジア各国からの留学生の主力は、今、アメリカに向いていますね。この留学生が日本に目を向けてもらえるような基準ですね。お願いしたいです。
今は「世界の中の日本」ですね。食糧の自給率、その他多くの物資の自給率から考えて日本という国の中だけで生活できませんからね。世界基準に達するようになってほしいですね。その指標の一つが「留学生のレベル」ではないかと思います。

2003年8月30日
朝日新聞の昨日の夕刊の記事「国立大学に外国人教授を」を読んで思ったこと
年金などで書きたいことがあるのですが、またまた本日もこちらにします。明日も怪しいですね。
日経の「私の履歴書」で小柴さんが書かれていた、「戦後すぐアメリカ海軍の研究費を使った実験の主任役になってしまった。海軍は、相手が少し前まで戦争をしていた日本人でも話を聞き、継続して支出してくれた。」という話がありました。敵国の人間にですよ。
ヨーロッパでも大学では外国人教授、珍しくないそうですね。
ところが、日本ではその昔、ある国立大学で夫が日本人で日本国籍とアメリカ国籍の両方をもっている人を教授にするとき、非常に問題になったそうです。二重国籍も駄目であったそうです。
最近は、国公立とも増加しているとのことですが身分的には欧米とはまだ比べ物にならないようですね。公立大学では、教授の半数ぐらいを「外国人教授」にしてところがありましたから。まあ、日本人の意識問題でそこも外国人が減ってきているようです。
国際化に対応するのに「世界史丸暗記」では何もなりません。人材の多国籍化が必要です。それも正規の教授などの教官としてです。
中高の英語助手、正規の教諭にできないのですか。それほど、ずさんな採用をしているのですか。

2003年8月27日
国立大学のセンター試験の科目増についてのニュースから感じたこと
勉強しないから、学力低下ですね。それで科目増、よい方向だと思いますが、大学が卒業生のレベルについて常に注意してある水準以上に保つようにしておれば低下現象なんかなかったかも。
相対評価や適当に成績をつけてきたとがめですね。企業も企業ですがね。そんな大学生を「青田買い」していた。だから、学生が勉強しなかった。いまは、少しずつ変わってきてるようですが。
例えば、中途採用の増加。新卒でも即戦力になる能力をもっているかとか。ある企業ですが、外国の大学に目を向けていますね。はっきりと海外の大卒の求人枠をつくった。
日本の大学も、山梨大学の工学部みたいにやってほしいと思います。勉強しない学生は、勉強をする学生にとって「邪魔」そのものですからね。勉強しない学生がいろいろ経験して再び、本気で勉強したくなったときのサポート体制の確立も必要ですが。
大学を名乗る限り、卒業生の質を国際的にみて遜色のないレベルにしてほしいですね。そうすると、進学希望の高校生はもっと勉強するようになると思います。
試験の内容ですが、マーク式より記述、記述より論述のほうがよいと思います。採点の楽なのは、確認テスト程度に留めてください。評価の絡むのは「論述」でね。

2003年8月26日
ある教育現場から聞いたこと
勉強をしない生徒や学生についてはこの話から除外して考えてください。勉強に取り組んでいる生徒、学生のことになります。
授業中や放課後等に質問に教師のところに行ったとき、「こんなのも解らないのか」とか教師が生徒等に言うことがあると聞いたことがあります。そのとき、生徒が「解らないから学校にきている。解るように教えてくれ」と言ったらどうするのでしょうか。
生徒は、解らないから学校にきているのではと思うのですが。
小中学校ですが、「義務教育」と言っていますが誰に対する義務なのですか。国、地方公共団体および親に対してですね。子供には、「教育を受ける権利」があるのでは思います。
勉強しようする児童、生徒、学生に対しては教師は解るように教える義務があるのではと思います。あくまでも自発的に学習しようとする者に対してだと思うのですがいかがなものでしょうか。
単に記憶するだけは勉強ではないと思っています。
初めから賢ければ「学校」で質問しになんかいきませんよ。バカやから賢くなるために「学校」に、より良い大人になるために「学校」に通っているはずですね。単に「文字列」(丸暗記)を覚えるためではないはずです。
私も、小中高大学と通って、ある程度賢くは成れたかなと思います。世間には「上には上」がいますからね。(相対評価的になってしまった)
それと、勉強には「終わり」はないと思っています。普通の日常生活でも常に新しい変化を感じ取れるともいます。それに対して「勉強」。いつまでも続きます。勉強は、「楽しい」ものです。
勉強をしない生徒や学生などが、真に勉強したくなったときの援助体制を整える必要がある。どのような年齢になってもできるようにする必要がある。
国立大学のセンター試験の科目増と年金問題、覚えていたら近日中に書きたいと思います。

2003年8月24日
昨日の日本経済新聞の教育面の「大学改革へ学生が授業評価」を読んで思ったこと
著者は、大見出しで「実施運用面で改善余地」と書いています。読んでいると確かにそのように感じました。
そこで、アメリカなどの評価とその運用と比べてみるのも面白いかも。あちらは厳しいらしいですからね。学生に対しても教員に対してもね。
あちらの学生は、留学生も多くいて「勉強」しに大学に入学しているのですが、日本の場合、入試が終わって「やれやれ」の感じの学生が多いのでは。そうすると「評価」がどのようになるかな。学生に甘い教官も良い評価が得られたりして。熱心でも上手でも評価が厳しいと・・・・。
評価を実施するなら、評価項目、記入時間、その回収方法、結果の取りまとめ、開示、フィードバックについて改善の余地が多いと書いてました。その通りかなと思います。
話は変わりますが、ある大学で聞いたのですが、推薦入試(面接ナシ)に面接を取り入れただけで「AO入試」になるとかのたまっていたところがありました。教官の意識改革、絶対要ります。すでに努力されている教官を多数いますが、まだまだの教官も多いのでは。
これは大学だけに限ったものではなく、いろいろなところで見られると思います。

2003年8月22日
「法科大学院の教員の資質」についてのニュースから
このニュースを聞いて思ったことは、ほかの学部でも資格審査をやってほしい。機関としては、技術者教育評価機構や病院の評価機構みたいな団体で、できればその結果を公表してほしい。
まあ、いままでしてきていないので、最初から厳格に審査し結果の公表のところで、ぼちぼちで年月をかけてすべて公表に移行して貰いたい。いつから全て公表するかはあらかじめ決めておくこと。
今までの私の経験から見て、「よくこんなので大学教官が務まるなあ」と思うときが時々ありました。
話は少し違うかもしれませんが、ある大学(商学、経営などの系統です)である教授の講演を聴いたとき、俗に言う理系科目を軽視しているのですね。今の普通の経営ですが技術のおかげというのがどの分野にもあると思うのですが。このとき、あんたも「生物(なまもの)」でしょうが。POSとは俗に技術系からでしょうが。脱工業化社会になるからとかいっていましたが、その脱工業化社会を支えているのが「農業」であり、「製造業」でしょうが。今年も気象を含めた自然環境に振り回されていますね。こんな視野の狭いのを大学教官にしておいていいのかなと思いました。
その教授は、もとどこかの銀行に勤めていたらしいので、銀行が潰れそうになる理由も納得できましたけど。反面教師では困るのです。
大学の卒業の資質の審査を技術者評価機構みたいなのを全学部に広げてほしいですね。

2003年8月20日
養老孟司の<逆さメガネ>を読んでいて思ったこと(その3)
結局、3回目になりました。でも、内容は本の内容にどこまでこだわっているのかな。
「個性」のことがでています。個性とは何か。今、この日記の字はPCのなのでフォントが同じなら、同じ字になりますが自筆なら、もう「個性的」ですよ。ですから、「署名」というのが意味を持つわけですね。いまは見分けがつかないほど真似できるようになってきましたが。
イラクのフセインの声の声紋判断をアメリカはやっていますね。どうしてですか。声紋が非常に「個性」的だからでしょ。完璧に他人の真似をする方が難しいですね。ですから、物まねが商売になるのです。
存在していることで本来「個性」を発揮しているはずですね。その存在を認めないような評価を下せば、どうなりますか。そのようにされた者は怒るでしょうな。同じようになるように教育してきておいて「個性」をだせと言われて出せますか。出せなければ個性がないという。こうなると人格も存在も認めてないということになりますかな。そら、ぐれますよ。
この前、NHKで「私が一番」とかいう番組があったようですね。人間、親から貰った遺伝子が違いますからね。そうすると、体に違いが出てきますね。もうそれだけで「ある分野」で世界で1人でしょうが。「個性」とはそれを認めることだけで良かったりして。
この違いからいろいろな才能、能力が出てきますからね。

2003年8月19日
養老孟司の<逆さメガネ>を読んでいて思ったこと(その2)
やはり、2回目になりました。でも、内容はどうかな。
この本、教育についても書いていることになるんですね。またぞろ、「知る」ということについてです。
「ある知識を知った」ということについて考えてみると、多くの場合、今は「データベース」に付け加えているだけというのをいっているようですね。
新しいことを知って理解するということの意味が以前と変わってきている。とあるのですが、日本は、大昔から「覚える」ということだけで「評価」をしてきたものだから、「君子豹変」や「朝に知れば、夕べに死すとも可なり」の意味が分からないのですね。
「人間、日々変化しているのですよ。」ということが解っていない。ともありました。このような状況では、教育とは「覚えるだけ」になりますな。
人間、変わらないという前提なら、就職の内定ですね、卒業の1年前に出せるのですね。本来、卒業研究の指導を受ければ学生は変わるはずです。変わらないなら、それは指導が悪いからだと思います。

2003年8月16日
日経一面の連載「日本語力 上」を読んで
日ごろから思っていることなのですが、小学校の低学年のころは未だしも上級になるにつれて、感想文や作文は書かせても、他の人を説得するための文を書かせませんね。
感想文などだけでは、語彙力はつかないかも。仕事に必要な言葉、日常生活に必要な言葉、生活を楽しむのに必要な言葉、これらの正しい使い方を、こどもに家庭や学校、地域で指導していくのですが、この中で学校が論述的な指導では大きな役目を果たすと思うのですが試験が「○×式」、「択一式」、「穴埋め」や「細切れの記述」では役に立ちませんよ。
敬語等や日常会話については、家庭や地域も大きな役割をもっていると思います。もっと、理詰めの文を書かせる機会を増やし、添削してあげましょう。

2003年8月10日その2
大学卒業について(本日2回目の日記)
朝の大学入学資格は、大学教育を受けていくうえでの必要を満たす学力ですね。
卒業資格については、大学卒として相応しい能力を身に付けたかどうかですね。
どちらも、相対評価では出てきませんね。よく考えて基準を決めなければなりませんね。日本人は、苦手だったりして。
まあ、技術者養成に関する日本技術者教育認定機構(JABEE : Japan Accreditation Board for Engineering Education )に習って他の分野でもやりましょうや。
ああ、それと教育とは本来「人間になるため」では。だから、入試にでるとかでないとかは関係なく勉強しないといけないと思います。そのためにも、学校内で教育していることと矛盾するような行動を教師はしてはならないと思いますが。

朝の分「いっそのこと、大学受験資格はどこを卒業しようがしまいが資格試験として高校卒業予定の生徒全員に受けさせたらいかがなものでしょうか。難易度はぼちぼちですね。高校で真面に3年間授業を受けてきたらできる程度。レベル的にはセンター試験なんかがいいと思うのですが。センター試験では、受験資格の有無のみにして合否はその後の試験のみで判定するとか。推薦合格の場合でもこの資格試験で成績不良の場合は入学を取り消さなければならいようにするとか。」のですが、科目数は最低でも5教科7科目でね。60%以上でね。

2003年8月10日
大学入学資格問題について
春頃から議論を再び呼んでいた外国人学校の大学入学資格について文部科学省の見解がでましたね。春のときは、時代錯誤の感覚、「脱亜入欧」そんな感じの案でしたね。
外国人学校より、日本の普通の高校生の学力のほうが平均すると悪いのでは。
いっそのこと、大学受験資格はどこを卒業しようがしまいが資格試験として高校卒業予定の生徒全員に受けさせたらいかがなものでしょうか。難易度はぼちぼちですね。高校で真面に3年間授業を受けてきたらできる程度。
レベル的にはセンター試験なんかがいいと思うのですが。センター試験では、受験資格の有無のみにして合否はその後の試験のみで判定するとか。推薦合格の場合でもこの資格試験で成績不良の場合は入学を取り消さなければならいようにするとか。

2003年8月4日
日経サイエンス 2003年9月号「疾走する中国の頭脳」を読んで感じたこと
感じられることは、中国は政府自体からして本気で真面目に縄張り意識無しで科学技術の水準の向上に取り組んでいるということであり、学生らもそれに答えようとしているということかな。
日本は、官僚的な制度によって機動的な研究環境の整備等ができていないようですね。だから、科研費(文部科学省が支出する研究費補助、そのほかの助成も年度末に近い時に支給らしいです)を裏帳簿を使ってプールし本当に必要なときに利用できるようにしたいという誘惑が起こるのですね。
必要なときに使えないという点は何とかならないでしょうかね。政治でも経済でも教育でも、まずやってみて、効果と結果を分析し、問題があればスピードをもって次策を練るというのが中国流だそうです。日本は、過去の形式を引きずり、改革をしても検証せず、あるいは結果をごまかし繕い次策を行わないかな。
だいぶ前に書いたことですが、アメリカの恐れていること、「中国人科学者などがアメリから中国に一斉に帰国すること」だそうです。
日本の制度、教育の中身、評価の質など根本的に考え直す必要があると思います。

2003年8月2日
日計ビジネス2003。8。4ー11合併号 編集長インタビュー 戸塚洋二氏 を読んでいて感じたこと
大きな見出しに「日本にないのは評価軸」とあります。これはどういうことなのでしょうか。日本の評価といえば、「相対評価」ですね。例えば、入試難易度が上だから、とかですね。
評価というのは、「何がどうしてどのようになっていてその結果が・・・」だからというようなことを積み重ねていって正しいとか間違っているとか、あるいはランクでどのあたりかをだす。絶対評価というのは、評価の基準みたいなものをださないと付けれない。相対評価は、基準ナシでも何か試験、作業などをさせて差がでれば付けれる。その相対評価にどっぷりつかってきた咎めが今出てきているのではと思います。
先ず大学から厳格な絶対評価に取り組んでください。
文部科学省は、相対評価をしている学校が残っていないか調べ絶対評価に変えるように指導してほしいですけどね。

2003年7月24日
つらつら思うこと
「文系」と「理系」このような分け方をするのは日本ぐらいだそうです。人間は、「生物」(なまもの と入力して変換すると出てきます)ですね。化学などの自然科学の法則に従って生きているわけです。その他、例えば、自動車の運転では「物理の法則」に勝てません。身の回りには、いろいろな工業製品や加工食品などもあふれていますね。それらの中身を何となくでもわかっている方がいいと思いませんか。
また、我々は、人と人との関係で生きていますね。その時、経済的関係や法的関係に晒されていますね。歴史のつながりから断ち切られた存在ではないですね。
より良く生きていこうとしようとするといろいろな分野をある程度の深さまで満遍なく理解しておく方ほうが良いと思うのですが。覚えるだけでは、「糞の役にも立たない」ですけどね。
学ぶとは、どのようなことなのか考えてみませんか。人間は、刻々と変化しているはずです。ところが日本の教育は、停滞させる方向にしかはたらいていないことが非常に多いのではと思います。
「人間は学んで良いことを理解すれば変化する。」というような教育を目指してほしいですね。

2003年7月20日
今日は日経の一面連載「働くということ」を読んでです
今日は「第3部 カイシャとの距離6」です。副題というか見出しには「仕事の喜び 共に発掘」というのと「住宅1000軒売った男」とがありました。
個人と企業の関係ですね。自己の充実感と会社的な感覚のズレについての記事だと私は思います。一般的には「出世」に価値観をおいていると思います。ところが働いているものの中には、出世ではなく自分の仕事というか現在している仕事に面白さをもって熱中したり、継続的にやりたいというほうに価値観の重点を置いている人も多くいるという記事です。
本社にいて想像力がなく、現場を知らない管理職には理解できないでしょうね。この人たちの気持ちは。
人間、お金のためだけに働いているのではありません。なかにはお金の亡者もいますが、お金は多いほうがいいですが、人間として尊重されているのかいう点のほうではないでしょうか。
想像力がなく現場を知らない管理職と書きましたが、「管理職」は「官僚」などに置き換えることができます。日本の教育は、「想像力」も摘み取るようなところがあります。このような教育に耐え抜いた者のみ真の想像力を潰されることなく発揮できるのでは思います。

2003年7月19日
日経土曜日の教育面より 「存在意義示せるか?国立大学」を読んで
来年度から国立大学法人になることが決まりましたね。このことで、国との関係ですが、評価等を通して今まで以上に国の支配が強くなるという考え方と法人化を指示する意見とがありました。
どちらも、それなりに根拠のあることだと思います。さらに私学との関係もあるのですが、抜けているのが日本における教育の費用負担の問題です。何日か前にも書いたとことですが、教育の受益者とは誰なのですか。
ヨーロッパの学費についてのいくつかの国の様子から考えられることは、受益者は「国」または「国民全体」というような考え方から授業料を安くし奨学金も充実さえているところが多いようですね。アメリカの奨学金、どこから出ているのかな。でも、金額は大きいようですね。軍に入隊しておけば相当優遇があるようですね。国がというのか社会全体が受益者という考え方のように見られます。
私学を含めて学費を、経費をどうするのかということを真剣に考え、大学の教育の質を向上させ、真に優秀な人材を輩出できるようにしないと日本は世界競争に負けるような気がします。

2003年7月13日
HPと日経の記事から感じたこと
<A href="http://nosmoke.hp.infoseek.co.jp/gakkou/" target="_blank">学校の禁煙化を支援するホームページ</A>の「小学生より」を読んでいて、「たばこの害」を教えている教師がたばこを吸っている矛盾と今日の日経のSanday Nikkeiの「真説 異説」の記事中に書かれている官僚の体質、なにか似ているような感じがしました。ともに「知っているけど、自分には関係ない。なにもしたくない。」とかいう体質ですね。
これらの人々の受けてきた教育って何だったのですか。教育とは、より正確なことというか、新しい正しい見方、考え方、知識を学んで理解すれば、それによってより良い行動に変化するようになることではないでしょうか。
本来の教育に戻る第一歩として、学校の全面禁煙化をしてください。
学があるとか、ないとか、言いますが、知識を学んでも、間違っていると解った行動からの変化が見られない人こそ、「学がない」と言うことですかな。特に大学は最高学府でしょ。学のない人は、いないはずですが。

2003年7月12日
日経土曜日の教育面より 「法科大学院について」を読んで
別のPCで日記を書いて持って帰るのを忘れた。(涙)
うろ覚えで書いてみます。
法科大学院の設置申請から見た定員は約6000人になるそうですね。新司法試験の合格予定数は3000人とか。当初の目論見の合格率7〜8割を大きく下まわることになるようですね。
なぜ、こうなったのか。理由はいくつもあると思いますし、完全にはわからないかも。
主な理由として記事は、横並び主義を挙げていました。私もそう思います。それと大学の評価ですね。どのような点を重点にして行うのかということも関係があると思います。「法科大学院もないような法学部は、・・・」という感じですね。大学院がなくても良い教育を行なっているところも多いのですがね。
できた後で問題になると思われるのが、「合格数」かな。入学当初は、それほどでもない学生を指導して合格させても、もともと高学力の学生でたいして指導していなくても合格は合格ですね。どちらの大学院のほうがいいのかな。
そこで、こんなのはいかがですか。「出身大学の大学院には入学できない。」とか「同一大学からの入学生を20%とかそれ以下に制限する。」とか、まあ、これは医学関係で実施してほしいのですが。医学部の場合は、研修病院もこれを適応してほしいと思います。

2003年7月10日
日経3ページにあった国立大学法人の記事を読んで
この記事の中で、授業料のことが書いてありました。ある大学の学長が「授業料について、文系学部と医学部とで同じというのは受益者負担の考えからするとおかしいので違えなければ・・・」とかなんとか言っていました。
教育の受益者って誰なんですか。確かに教育を受けた本人も受益者ですが、それだけですか。特にヨーロッパの考え方からみると「国全体」というかその社会自体も受益者であるという考え方で授業料や奨学金の額を考えているようですね。より良い教育を国民に受けてもらい、よって国の発展に貢献してもらうことで還元してもらうという考え方ですね。
だから、教育にかかる費用は国でというか税金でという考え方ですね。
アメリカも奨学金の充実で対応しているようですね。あのイラク戦争のとき、捕虜になったリンチさん、軍隊にはいった理由は何でしたか、思い出してみてください。大学進学のためですよ。
アメリカの奨学金頼りに留学しているのが中国人などであったりして。
日本は学費は高い。奨学金は不十分でせこい。教育の本当の受益者は誰であるのか、考えてみる必要がありますが、いまの日本の教育ではね、?です。

2003年7月9日
今日も日経連載「デフレが蝕む」を読んで(昨日7月8日分より)
「この力を解き放て」という見出しがありました。閉塞感から抜け出すためには、優れた社員に高い賃金で報いられる循環をつくることだと書いてあいます。
問題点の一つは、誰がどのような基準で評価するのかということです。学校に関しては、まだ、相対評価から抜け出せていないところが目立つようですね。それぞれの学校で、何ができるようになれば卒業させるのかという点について議論しているところは少ないようですね。取り敢えず入試で出るからとか、難しくすると欠点(不認定)が多く出そうだとか。どうして、学校は、「卒業生」の能力(全般ではありませんよ)保証をしないのですか。保証を考えているのは、あの技術者教育の評価機構の認定や医師などの国家試験などのあるものだけですね。それ以外は何なのでしょう。ですから、資格試験に人気が集まるのでは。でも、これは人間の能力の一面を見ているだけであるということを忘れないようにしましょうね。

2003年7月5日
日経教育面を読んで
今日は、「大学の研究費について国立への重点配分 解消を」というものです。
この件で感じるのは、大学への国の考え方ですね。国の部分の研究費が諸外国に比べて少ないのではということです。大体、学生に対しての奨学金ですが日本は欧米に比べてどうしてせこいのですか。中国人は、授業料の高いアメリカに多数留学していますが相当数はアメリカの大学の奨学金みたいですよ。どこから、そんかお金をアメリカの大学は出しているのでしょうか、教えてください。ヨーロッパは、国のようですね。そして給付らしいですね。ドイツは、ほぼ例外なく月に6〜10万円給付だそうです。授業料も学期数千円だそうですし、寮も月1万円ぐらいだそうです。イギリスの私学には補助が相当出ているようですね。
教育をどう考えているかと言うことがでているように思います。
研究でもアメリカのNIHは日本円で兆の単位の予算を持っているようですね。それを全米の研究者に配分しています。この配分にあたる担当者は今日の記事にもありましたが「利害関係者」にはなっていないだけでなく、その分野全般を見通す能力を兼ね備えている人を抜擢しているような気がします。
欧米では、大学の教育研究は「国のため」になっているという考え方でしょうね。日本は「個人の利益」という点でしか見ていないから起こることではと思います。
受益者は、誰なのですか。ここで優秀な研究者はいますが、全体的な教育研究の制度面において少しぐらい違いはあっても質を欧米並みまたはそれ以上にすることが国の利益になると思うのですが。

2003年7月3日
養老孟司著「バカの壁」を読んでみてと書籍の販売ランキング
今週ですか、そしてどこかの書店の新書部門ですかな、ランキングで上位にこの本が入っていると今日の朝のTVで言ってました。読んでみた者としては、多くの人に読んでほしい本です。ところが、読み手の方ですね。どこまでこの本を読んで、単に「知っている」ということの無意味さを悟り、また学習とはどのような意味のことかなどで変化のきっかけを掴むことができるのかなと思います。いままで、啓蒙書や司馬遼太郎の講演集やいろいろな機会に日本の教育やその他不都合な点が指摘され、変化した方が良いという意味合いのことがありましたが、変化しませんね。表面的には変わっているようなのですが内面は変化してないように思います。中国文化を取り入れていた時代、仏教に傾倒していたとき、欧米の文化が入ってきたとき、適当につまみ食いだけして本質は変化してこなかったのでは思います。いかがなものでしょう。
教育に対しての認識がなっていないからではと思います。早く、単に「知っている」覚えるだけをいうのが意味がないこと、考えさせるには「マーク式」や択一式、穴埋めは意味がないことを悟ってください。

2003年6月29日
日経「私の履歴書」を読んで
6月は、林原社長の林原氏です。今日の分で、こんなことを書かれています。「なまじ自分が知っていると思ってやった仕事はうまくいかない。」とです。
これは昨日の日記に書きました「知っている」と「理解している」のような感じのことを書かれているの冠と思います。今日もニュースで医者が覚醒剤を使っていたいうのがありました。これなどどんな医学の勉強の仕方をしたのでしょう。薬品のことについて知ってはいても「解っていない」という状態でしょうね。単に覚えているだけ。困るのですね。こういう覚えているだけを「解っている」とか「できる」と思い違いしている人は。本当に困ります。

2003年6月28日
養老孟司著「バカの壁」を読んでみて
この本を読んでみて、感じたことは多くあります。その中で「知る」または「知っている」ということと「理解する」というか「わかっている」というのは別物であるということに気がついていない人が多すぎるという指摘です。これについては全くその通りだと思います。テスト勉強で「覚える」ということを強制されてきたせいなのか、覚えればよいという風潮が強くなっていますね。ですから、例えば、「たばこの害」を教えているのに「たばこを吸っている」などというのもこのたぐいではないでしょうか。物理を教えていて「シートベルト」の意味がわかっていないから、警察のいるときだけしているというのもです。本当に「わかる」というのであれば、人間、変わっていくと思います。ところが身に付いていないから変わらない。覚えても忘れる。覚えていても活用できないということになるのではと思います。
どうしてこのような人間が増えたのかについてはいろいろ議論があると思います。
それと、日本人、結構、聞いているふりをしているが実質は人の話を聞きませんね。ですから、議論が成り立たない。ですからいつの間にが議論のテーマがすり替わっている。肝心なことの議論ができていない。どうしてでしょうね。

2003年6月22日
日経「教育」を読んで
今週(21日付け)は、東京都荒川区の学力テスト結果、ネットに」です。 荒川区のHPで見てきました。各校の差などが平均得点などで出ているのですが、イマイチ良く判りません。 理由は、学力の定義というのか荒川区の学力テストの問題がない(私が見つけられかなっただけ?)。外部公表するのなら問題もわかりやすく掲載してほしいですね。それと各校の立地条件ですね。公立の場合、地域によっていろいろありますからね。私学もですが。 荒川区内では、もっとたくさんの資料が提供されていると思いたいですね。個人を特定できる情報を除いてですが。 大事なのは、例えば小学校6年で、どのようなことができることが望ましいのか十分な検討がされることだと思います。学力とは何か。です。 そうでないと、昨日の日記にも書きましたインターフェロンの長野泰一先生の言葉の引用「独創を出したいと思っている人間には出せない。事実を丹念に追っているうちに新しいことに巡り会う」ということもできない人間を育てることになるかもしれないのです。 でも、日本では大学や企業の採用姿勢が変わらない限り、教育の正常化は無理だったりして。
学校の禁煙化を支援するホームページ  どこが最後になるのか。予想しませんか。学校は、本来周りから言われなくても全面禁煙であるのが普通だと思います。

2003年6月21日
日経「私の履歴書」を読んで
6月は、林原社長の林原氏です。今日の分で、独創と応用について述べられています。そして「基礎をベースにした研究は、その裾野から成果に至る過程、派生する副産物まで、すべてが自分のものだ」とも述べられています。「応用は、途中までの過程は他の人とおな序で、そこから競って一番になった部分でしか利益を生み出さないし、しかも、少し油断するとすぐに陳腐な技術になる」とも述べられています。
さらに、インターフェロンの長野泰一先生の言葉も引用されています。「独創を出したいと思っている人間には出せない。事実を丹念に追っているうちに新しいことに巡り会う」ということです。
最後の方で独創性を高めるには、「少しでもいいもの、いい人に接する機会を増やす」ということが一番であると述べられています。
日本で、いいもの、いい人とは何なのですか。一部の天才を除いて、いいもの、いい人に接したことのない者は、伸び悩むことになると思います。今の日本で、特に教育に於いて「いいもの、いい人」について考え直して見る必要があるのではと思います。

学校の禁煙化を支援するホームページを見てどこが最後になるのか。予想しませんか。学校は、本来周りから言われなくても全面禁煙であるのが普通だと思います。

2003年6月17日
週刊「ダイヤモンド」より
この号の特集「息子・娘を入れたい学校」のなかでのIBM会長の発言のなかに「どんな大学を出てどんな成績だったかどうかなんか、もう企業は見ていない。」とありました。これは、日本の大学教育やその評価を信用していないということではないでしょうか。大学教育がなっていないから3年生の3月ぐらいに採用内定が出せるのですかな。もし、そうなら企業はどうして高卒のときに優秀なのを採用して鍛えないのかな。今は、そんなのんびりしてことができないのか。
企業は、もっと大学に卒業生のレベルについて注文を付けてもいいのではと思います。最低限必要なレベルを。企業のほうでもこの点の判っていないところがあったりして。

2003年6月14日
日本経済新聞より
教育面に「今どきの子ども」というのがあります。今日は、こどもの曖昧な答えについてでした。
例えば、「今日何をしたいの」と聞いても「わからない」、「今晩なにが食べたいの」でも「わからない」など、自分の主張がないというか無気力というか、今何をしたいかも口にできないこどもが増えているとのことです。
自分からの意欲を奪ったのは何なのでしょう。この対極が、自分の欲望のまま、生きているようなこどもも増えているような気がします。ほどほどの健全に成長しているこどもの割合が減少していている可能性があると思います。
どうして、このようになったのか、真剣に考えてみる必要がありますね。

2003年6月12日
日経ビジネスより
読んでいたら、養老孟司著の「バカの壁」という本のことがありました。このバカというのは、情報の収集などで自分で壁をつくってそれ以外の情報を拒否してしまうようなことだったと思います。詳しくは、本を買って読んでみたいと思います。
日本には、この「バカの壁」に毒されている人が欧米に比べて多いような気がします。特に「エリート」と言われる層や・・・にです。

2003年5月26日
週刊ダイヤモンドより
2003年度版「役に立つ大学」の冒頭に、松下電気産業は技術者の定期採用において、前年度の500人から300人に削減。削った200人分を海外の大学を卒業した外国人技術者採用に充てるとのことです。
この記事の中には、こんな見出しもあります。「高まる一方の理系への評価 大学の実力差は柔軟性が決める」というものです。
まあ、ついに日本企業も本格的に大卒の質を問題にしてくるようになったのですね。日本の教育は、いつのころから世界水準から遅れをとるようになってきてましたからね。追いつくためには、基準を確立する必要があると思います。

2003年5月24日
日本経済新聞より
このところ、新聞で「働くということ」という連載が再開されました。今度は「第2部 漂流する若者たち」です。そのどれもにあるのが、活力を失った若者の話です。中には、元気者もいることを紹介していますが、元気を失い、難しいことに挑戦しようという気力を失っている様子が記事になっているように感じました。
これは、小さいときの失敗体験というか挫折体験とせれをバネにして向上しようとした経験が少なくなってきていることも問題なのでは。人間は失敗します。でも、それを成長の糧にできるはずです。ところが、今はこのことがやりにくくなっていますね。過保護なのですね。経験してよい失敗を経験せずに来てしまったから失敗が恐いのかな。

2003年5月22日
NHKクローズアップ現代をみて
韓国の英才教育についてでした。国家にとって有能な学者を養成したいということなのですが、どこか中国の英才教育と通ずるところがあるようにも思えました。
数学のテスト風景が終わりのほうでありましたね。テストが始まると監督者は出ていってしまいました。それでもカンニングがないということです。これは、テストの内容が、各自の発想、表現力などを確かめるのが目的であるというのを生徒が理解しているからだと言ってましたが、順番では評価していないのでしょうね。生徒各自がそれぞれ何ができるかが評価の対象であることが理解されているためでは。
日本みたいな記憶力テストだと、監督者がいなくなると「カンニング」続発でしょうね。プサンの英才学校の教師は、記憶量ではなく、調べる力、まとめる力、発表する力、説明する力などが大事だと判っているから生徒も各自の能力を高めるために勉強してるのですね。
教師の質が悪いと極一部を除いて生徒の学力感が悪くなります。
教師の質ですが、どのようなのがいいのでしょうか。入試に出るというものを暗記させる教師のほうがいいのですか。自分で調べて理解し、入試で重要な部分が部分がどのあたりか自分で判るようにする指導できる教師のほうがいいのですか。

2003年5月13日
日本経済新聞より
社会面に「2001年度小中学校学力テスト」について、文部科学省が分析し報告したものについての記事が出ていました。丸暗記で弊害が出ている様子が浮き彫りにされています。どうすれば、いいのか。大学が卒業認定に「卒業論文」を必修にする。卒業基準を厳格にレベルを保つ。こちらのほうから手をつけないと直らないと思います。大学入試は、学力テストと考えられるものは、全て論述式にする。センターは受験資格があるかどうかの判定のみに使う。すべての校種において「成績評価」が厳格に「絶対評価」になっているのか立ち入り調査をしてください。絶対評価の曖昧さのほうが、相対評価の弊害よりよっぽどマシです。

2003年5月5日
こどもの日
こどもの人口について各新聞などに出ていましたね。活気のある国は「こどもの人口が多い」そうです。まあ、中国みたいな例外がありますが。少子化が言われるようになって久しいのに減少を続けていますね。保育園、漸く預けやすくなってきましたがまだまだのようですね。ベネッセでしたか制度として育児休業を長期にわたってとっても良いようにしているところが出てきていますが、それより問題は、多くの民間企業に見られるイジメというか子育て妨害と思えることをするところがありますね。企業にも子育てに政府の補助をと思うのですが、補助を増やすとともにもっと徹底的に制度違反を取り締まらないとこども、増えませんよ。飴と鞭、組み合わせて徹底しないことには駄目だと思います。教育も大学で遊ばせるようなことをしているから、無駄になっているのですよ。大学でしっかり勉強させれば、小中高でもっと良い意味でゆとりが取れると思います。今のアホみたいな受験が減少すると思います。

2003年5月3日
日本経済新聞より
連載「ニッポンの文化力」よりです。副題が『気付かぬ「宝の山」』です。海外から来た発想買付人により発掘されているようなことが書いてありました。国内の関係者、何を見ているのかな。全てを国内のとは言いませんが記事の内容からするとほとんどが、海外からの人による発掘みたいです。どうじて、自国民の文化活動を見るのに外国人を間に入れないとだめなのですか。記憶中心の学習は止めて、どのようなことができるのか、新しい発想はとかいう教育にとおもいます。高度な水準に達すれば、結果として必要な事柄は自然と覚えていますよ。水準が低いと勉強しなくてもできますので役に立ちません。

2003年5月1日
本日より「健康増進法」施行
今日も職場に日記のネタを忘れて来ました。新聞です。持っていって、持って帰るのをです。
今日から「健康増進法」施行ですね。関東の大手私鉄の駅や道路公団のサービスエリア(建物内)などが全面禁煙になりましたね。医療や保健関係の喫煙者はどう思っているのでしょうか。たばこの害を教えている人で喫煙者はどう考えているのでしょうか。何も考えていないのかも知れません。だがこの害を減らすには、そのあたりの意識改革、大学や専門学校等での教育のあり方が問題になると思います。

2003年4月28日
日本経済新聞より
今日は、21ページ科学にある「大学革新 第1部大競争時代へ」を読んでです。この記事で長浜バイオ大学の入学式でタカラバイオの社長の話した中に「日本の学生の特徴は何でしょう」と新入生に問いかけ、答えは「世界一勉強しないことだ。」といっています。このような勉強しない状況を作り出したの大学の責任が大きいわけですね。何とかしてくださいよ。山梨大学のように外部評価を受けてください。会津大学や沖縄に新しくできる大学院大学のように第1線で活躍する外国人教授に活躍の場を提供してください。
日本が滅びないためにね。

2003年4月27日
日本経済新聞より
今日は、「経済論壇から」です。今日の主題は「日本の技術競争力の課題」です。その中に、「日本は極端なホモジニアス社会である。こういう集団からは、よき進化は生まれようがない。そのあたりから・・・」とあります。固定的な価値観からの脱却が求められているのです。
中央統制システムが行政機構から企業社会、学校などにいたる隅々まで行き渡っています。そこをなんとかしないと若者の本当の意味の独創性は発揮されないと思います。個性化、個性化といいながら、「皆が同じ」を強制している学校現場、学力水準を保証せずに外見だけ強制しています。日本を救うため、「皆が同じ」ということに疑問を持ちましょう。

2003年4月26日
日本経済新聞より
日本経済新聞は、毎週土曜日に「教育」について1ページ使って記事を掲載しています。今日の分の中で「都立高校入試改革をふりかえって」がありました。都立高校に訪問した中学生が増えるなど点については、良い評価をしていると感じる記事ですが、調査書バブルの項目で感じたのは、絶対評価の不慣れによることが原因と思われる現象が取り上げられていました。問題点も出ていますが、評価する側の教師が「正常な絶対評価」を受けたことがあるのかな。評価法の研修をしてもらったことがあるのかな。絶対評価は、相対評価より難しいと思いますが、相対評価のままですと今出てきていおる教育上の問題は解決しません。絶対評価への移行が必要なのです。しかし、落ち着くまでは時間がかかると思います。長い目で見る必要があると思います。
絶対評価のために評価基準、方法等を確立しましょう。不合格や留年、でてもいいのではないでしょうか。人間、皆同じなのですか。違うでしょ。個性化の時代でしょ。

2003年4月24日
日本経済新聞より
連載「デフレが蝕む 第4部 世界に広がる衝撃波2」を読んでです。副題が『中国「激安」の方程式』です。中国で過当競争して安売りでも何とかなる背景についてありました。13億の人口のうち9億人を占める農村部が供給する無尽蔵の低コスト労働力であるというようなことが書いてありました。世界に目を転ずるとこの中国の農村部より貧しいところはまだまだ幾らでもありますね。そうすると、中国での労働コストが高くなれば他を探せばよい訳ですね。結局、日本は物をつくることにおいて世界の中での競争に常に晒されるわけです。昨日、頭脳の方を書きましたね。今日のほうは、頭脳より早く現実化した部分ですね。インドもそうですが、中国のハイテクの技術力もすごいですよ。台湾が
良い例です。同じ中国人ですよ。さらに台湾より人口が圧倒的に多い。
教育や人材の評価法を再検討して変えてください。今のままでは、優秀な人材が育ちません。あるいは海外に出てしまいます。
旧来の評価法ですと、本当に優秀な人材が評価されないような気がしてならないのです。

2003年4月21日
朝日新聞より
一面(1ページ)に教育に関する特集があり、教師の評価の問題が取り上げられていました。そこで思うのは、高校については運動部関係では、全国大会への出場やそこでの優勝など、文化部はも同様な面がありますね。進学では、大学への合格数ですね。
どうして、卒業後の様子、進学ですと大学卒業後、どのようなところで活躍しているかというようなことも高校の教師の評価対象に入れてもいいのではと思います。合格でお終いでは惨めですね。ただ、企業などの採用の方法や企業、官庁などでの評価が不適切ですとこれを入れると藪蛇になります。
運動部では、プロや社会人などでどれだけ長く第一線で活躍できる選手を養成できたかのほうが大事なのでは思います。評価が単にその場のことだけになりますと、記事にもありましたように「生徒に媚びたり、これが出る式の教え方になったり、勝つことだけで故障など」などいろいろな問題が出てきていると思います。

2003年4月13日
日本経済新聞より
すみません。PCトラブルで更新延びました。windowsの認証、2日続けてする羽目になりました。完全には回復していません。
昨日の連載「今どきの子ども」に書かれていたことです。『若い教師 増えると子供も学校も元気』と副題がありました。新人が入ってくると職場が明るくなる。同じことが学校でもいえる。でも、この筆者は「子供が好き」な教師の前提ですね。採用試験で、本当に子供が好きな人をいつまでも見ぬいて採用してほしいですね。さらに、「覚えることが勉強」と思っている人は採用しないでほしいですね。理科や算数、数学まで暗記物になってしまえば、いくら勉強しても無駄になります。国語や社会でも同じはずです。採用試験、何とかなりませんか。高校でも大学入試程度のレベル。専門分野は、もっと深く勉強させな駄目ですよ。

2003年4月9日
日本経済新聞より
連載「働くということ」についてです。第1部不安と向き合うAです。「地域衰退 跳ね返す核に」という今日の副題があります。
例として会津の土建屋の話が出ていました。新しい画像処理技術の開発です。ふと思ったことなのですが、会津といえばコンピューター理工学部をもつ福島県立会津大学がありましたね。直接か、間接的か分かりませんが存在が影響したのではと思います。世界的な研究をする大学があるというのは何らかの良い影響を地元に与える可能性があると思います。ところが、青年保育所のような大学では単なる消費人口増などの経済効果のみになるのでは思います。大学の質を維持向上するための仕組みを作る必要があると思います。
他社の例も地元に大学があるということが利点になっています。良質な教育のできる大学です。

2003年4月8日
日本経済新聞より
昨日よりの連載「働くということ」についてです。第1部不安と向き合うAです。「自分の価値が言えますか」という今日の副題があります。
これは、例えば仕事に対する能力ですが、他社にいったときどれだけの価値に認めてもらえるかということではと思います。学校でも同じことがいえると思います。内輪の評価に安住してしまうと能力がどの程度かが見えなくなります。特に相対評価のみですと。これは日本全体に広げても同じだと思います。「みんなでサボれば恐くない」では学力が低下しているにもかかわらず評価は良いということが起こります。今の日本はこの状態です。レベルの低下が大きいのに気づかない。だから、資格がもてはやされるようになりました。学校教育や企業の社内評価が当てにならないためではと思います。世界レベルの基準による評価ができる社会にしていく必要があると思います。

2003年4月7日
日本経済新聞より
本日より新しい連載「働くということ」が始まりました。第1部不安と向き合う@です。「惑う若者 会社を疑う」という今日の副題があります。これで感じることの一つは、若者の就労体験や実際にものを作り上げるとかいったことの不足があるのではと思います。それと家庭状況、学校教育での評価の問題、テストの方法の問題などが重なってきている為と思います。テストですが、やはり考えさせて論述させるタイプでないと意味がないと思います。人間は、DVDーROMみたいには覚えられませんし、忘れたり間違ったりします。人間の良いところは、考えるところから発揮されると思います。よく考えられるようになると記憶の質も向上します。利用できる形での記憶になります。
単に覚えるだけならPCなどに負けます。人間とはというところから教育を見直しませんか。

2003年4月5日
日本経済新聞より
日本経済新聞は、毎週土曜日に「教育」について1ページ使って記事を掲載しています。今日の分の中で「数字は語る  国立大生への支出 私立の倍」がありました。ここで問題になるのが先ず、教育の質とレベルのはずです。次に学費をどのように考えるかです。ドイツでは授業料は学期に数千円、奨学金はほぼ全員に給付され日本円で6〜10万円ぐらいだそうです。更に月1万円ぐらいで住める学生寮も完備しているそうです。アメリカですが、授業料は高いようですが奨学金などで親に負担をかけずに済むようです。だから、中国などからの留学生は大学の奨学金が貰えるように頑張って勉強してます。日本は、私学への補助少ないですね。国立の授業料、挙げる必要はなく、それより給付の奨学金を充実する必要があると思います。全ての大学に言えることは「世界的に見ての教育の水準」を目指してください。なあなあの進級、卒業はさせないでください。教授陣のレベルを優秀な教授のほうにあわせてください。
世界は、「大競争」に入っています。この競争に勝ち残る為、アメリカは優秀な留学生に来て貰えるように努力しています。ヨーロッパ各国も同じです。自国民が勉強しないのなら留学生で刺激を与えています。日本ももっと優秀な留学生に来て貰える環境も創ってください。